スウィートなギタープレイヤーは、内田勘太郎です。憂歌団で掻き鳴らした頃も今も。魂のある音楽はいつだって、原点を思い出させてくれる。(1/2)
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INTERVIEWS:
内田勘太郎 / ギタープレイヤー
内田勘太郎の音楽はプリミティブで、メロディックで、心躍るグルーヴがあり、どこか懐かしい。「魂」のある音楽はいつだって、原点を思い出させてくれる。どこかの誰かさんが作ったジャンルという型には嵌まらない。只々、熱度を感じる音楽を求める、氏の奥深い音楽遍歴の一片を語ってもらった。
見た目も音も只者じゃない
そのグルーヴにブッ飛ばされた
俺の子供時代に心に残ったバラードが二つあって、一つは小学校低学年の頃に観ていたテレビ番組『シャボン玉ホリデー』で聴いた「スターダスト」、もう一つは金曜日20時の『ディズニーランド』で流れていた「星に願いを」なんだ。その頃は、その音色がギターという認識もなくて、只々なんて夢の様な音色だろうと思って聴いてた。ギターってさ、平板に弾くと平板だし、ニュアンスを込め過ぎるとちょっと臭い。ちょうどいい具合に、世の中に出ている先輩ミュージシャンは凄く良い感じでやっている。結局、「ギターで歌う」ってそういうことなんだよ。
そいでさ、中学生の頃に観たテレビ番組『ザ・ビート』でさ、「ブルース」という音楽を初めて認識したの。当時は、動いているミュージシャンなんて観る機会がなかったから、その番組を凄く楽しみにしていた。その番組にヴァニラ・ファッジが出るのを知って、これは観なきゃと思ってたんだ。そしたらフレディ・キングって人が出てきてさ、テラーっとした、真っ赤なギターを持ってさ、頭をコテッコテに盛り上げて、パッツンパッツンのスーツ着てさ、牛みたいな体が、みるみる汗だくになってくのさ。彼が歌って弾いているのを見て「何これ?」って思った。ヴァニラ・ファッジより俺には強烈に印象に残ったのさ。その汗だくの牛みたいなギタリストがさ(笑)。
高校になって音楽雑誌を見ているとさ、B.B.キング、アルバート・キング、フレディ・キングっていう、「ブルースギタリスト3大キング」って記事が出てる。どんなものなのかな? なんて思って、B.B.キングの『ライブ・アンド・ウェル』ってアルバムを買って聴いてみた。するとね「あれ? これがブルース?」って、管(ホーン)が入ってるんでJAZZ かと思っちゃって、15歳だったし、ピンと来なかったんだ。なんか、よく分かんなかった(笑)。
よくよく考えれば、片面はライブ録音の往年のB.B.キング、それでスタジオ録音のB面は16ビートに乗っかっているB.B.キング。まさに16ビートに乗り切れてないから、ちょっとギクシャクしてんのよ。だけどそのメンバーにはジェリー・ジェモットとか素晴らしいメンバーが入っている。そいで今度は、フレディ・キングを聴いてみた。まあまあ良い感じだなーなんて思った。そいでアルバート・キングを買ったらもうそれがバシーっときてさ。本当にギターに風圧があって、ブッ飛ばされるみたいだった。ヴィーンって弾いただけでもヴーウンってなる感じさ。B.B.キングのスムースなギターにはあまり感じなかったんだ。
それでも高校1年生の時にB.B.キングが初来日して、ライブを観に行ったんだ。客の入りは三分の一くらいだったかな。今思えばファンクだったんだけど、先ずバックバンドが3曲ぐらいやったんだ。そいで「Ladies and Gentleman,King of the Blues, Mr. B.B.KING !」ってイントロダクションが入った瞬間に、ズタッタッタッタって凄いシャッフルビートが始まったんだ。そいでB.B.キングがソーッと出てきてさ、置いてあるギターでコカッカーンってやった瞬間にパチンってなっちゃった。そしたらもうお客が全員前の方に押し寄せて来てさ、あれを思うとB.B.キングのコカッカーンも凄いんだけど、バンドの皆さんのグルーヴにやられたんだ。ロバート・フリーマンとソニー・フリーマンがベースとドラムなんだよ、最高のメンバーだった。後にB.B.のオープニンングアクトでも数々のバンドを見たけど、もう15歳の時に見たそのバンドが最高。”Unusuals”只者じゃなかった。
*テレビ番組『シャボン玉ホリデー』
1961年から1977年まで放送された音楽バラエティ番組。ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツがW主演し、ゲストには、坂本九、鶴田浩二、越路吹雪、古今亭志ん朝、江利チエミ、スパイダース、沢田研二、北島三郎などジャンルレスな錚々たる面々がゲストとして登場した。
*テレビ番組『ディズニーランド』
アメリカで1954年から1958年まで放送され、日本では1958年から1972年まで放送された。ウォルト・ディズニー・プロダクション制作の一時間番組。ウォルト・ディズニー・スタジオが初めてテレビ界に提供した作品として有名で、日本では三菱電機による一社提供だった。
*テレビ番組『The!!!!Beat』
フレディ・キング31歳のときのテレビ・スタジオ・ライヴ、バックはゲイトマウス・ブラウンが務めた伝説の番組。
*ヴァニラ・ファッジ Vanilla Fudge
のちにギタリストのジェフベックと共に「ベック・ボガート&アピス」のメンバーとなったティム・ボガート(ベース)とカーマイン・アピス(ドラム)らが1966年に結成したアメリカのロックバンド。サイケデリックで、ハードな演奏スタイルは当時「アート・ロック」と呼ばれ、1967年にはザ・シュープリームスで全米NO.1を記録した『キープ・ミー・ハンギング・オン』をカバーして、大ヒットとなった。
戦前の音楽もブルーバード・ビートもジャンゴも
スウィートなメロディは一緒くた
当時、大阪の心斎橋筋っていう賑やかな場所の端っこの方に、「坂根楽器」っていうレコード屋さんがあった。普通のレコード屋さんかな?と思って入ってみたら右の列は全部ジャズ、左の列は全部ブルースなんだ。ブルース担当、ジャズ担当のお兄さんがいてさ、端がちょっと切ってあるカット盤が980円とかで売っているわけさ。日本盤が2000円くらいしている時代に1000円以内で出してる(笑)。しかも見たこともない様なレコードがたくさんあるんだよ。だから俺、あっという間に戦前の1920年代のブルースまで聴くようになっちゃった。
そんな中で、デルタ・ブルースみたいなのも凄ぇって思っていたけどさ、そのデルタ地帯にいた黒人たちが、シカゴに職を求めて行くとさ、ちょっと都会的な感じのものを聴きたいっていう時に、「ブルーバード」っていうレーベルが出てきた。黒人もレコードの購買層だってことに白人が気がついたんだよな。そいでそれは、ちょっとお洒落なブルーバード・ビートっていわれるもので、リロイ・カー、スクラッパー・ブラックウェル、ロニー・ジョンソンなんかを聴くとさ、とってもスウィートなギターが入っていたりするわけさ。ロニー・ジョンソンなんか特にね。なんだろうね、*ジャンゴ・ラインハルトなんかとちょっと似たようなテイストがあるわけさ。チャチャチャチャチャチャチャっていう縦の4ビートなんだよ。ジャンゴってもう凄い有名どこだけど「わぁ!」って、俺は違和感なく聴けた。きっと彼もブルースっていう音楽を知っていたと思うんだ。だから俺の聴いていたのなんかは、本当に混ぜこぜなのさ。
*ブルーバード Bluebird Records
1934年RCAレコードにより設立されたレコード・レーベル。コストを削減するために作ったレコーディグのセッション・バンドには、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ルーズヴェルト・サイクス、ウォッシュボード・サム、サニー・ボーイ・ウィリアムソンなど後にブルース・ジャイアントとなる多くのミュージシャンが含まれており、リズムアンドブルースや初期ロックンロールに多大な影響を与えた。
*リロイ・カー Leroy Carr
1905年3月27日にテネシー州ナッシュビルに生まれ。シティ・ブルースの確立者として重要で「How Long, How Long Blues」がヒット。百数十曲を録音し、人気者として各地を巡業するようになりましたが、旅先で大好きな酒を飲み過ぎて肝臓を痛め、1935年4月28日の夜に出かけたオールナイトパーティの席で発作が起こり、翌朝に弱冠30歳で亡くなってしまう。
*フランシス・“スクラッパー”・ブラックウェル
禁酒法の時代、密造酒を売りさばくビジネスをしていたブラックウェルは、シガーケース(木でできた葉巻の化粧箱)にマンドリンのネック、そして6本の弦を張り、誰にも教わらず独自のギタープレイは噂になるほどになっていた。そしてリロイ・カーのマネージャーの耳に入ることになる。「クロスロード伝説」を残して消息を絶ったロバート・ジョンソンの、現存する僅か29曲の内の1曲、”Sweet Home Chicago”は、ブラックウェルの”Kokomo Blues”を元に作られたともいわれ、ボブ・ディランは「俺たちの音楽を辿った先は皆、スクラッパー・ブラックウェルに通じている」と言わしめた伝説のブルースギタリスト。59歳の時、何者かに22口径の弾丸を胸に2発受け亡くなる。
*ロニー・ジョンソン Alonzo “Lonnie” Johnson
1899年ニューオリンズ生まれのギター奏者。ルイ・アームストロング、デューク・エリントンのサイドでギターを弾き、ロバート・ジョンソン、T・ボーン・ウォーカー、B.B.キングを初め多くのアーティストを虜にした。その洗練され、流麗で美しい単弦奏法は、ブルースとジャズの世界において、またアメリカンミュージックおいて間違いなく原点である。
*ジャンゴ・ラインハルト Django Reinhardt
1910年生まれ、ベルギーのギタリスト。ロマ音楽とスウィング・ジャズを融合させたジプシー・スウィングの創始者。18歳の頃に大火傷を負ったジャンゴは、左手の薬指と小指が麻痺してしまう。そのハンデを克服し、それまでとは違った運指方法を編み出した。
民謡もマージー・ビートもカンツォーネも一緒くた
音楽はジャンルレスが面白い
浜口庫之助とか本当に良い曲を書くんだ。『夜霧よ今夜もありがとう』に始まって、素晴らしいんだ。『愛のさざなみ』もほんと好きだったな。子供の時は歌謡曲ってのは、特に別段好きじゃなかった。なんとなく地味だし、暗いなと思っていたけど、その中でもやっぱり坂本九さんみたいに印象に残る曲があるわけさ。その中でも俺は、三橋美智也さんが凄い好きだった。「わーらーに~まみれてよ〜♪」っていう『達者でな』なんか日本テイストが凄かった。三橋美智也さんは元々民謡歌手だったから、日本の故郷みたいなムードがあったね。
僕の母方の田舎は、岡山の総社っていうちょっと山の方なんだけど、行くとひと夏とかそこにいるんだけど、牛小屋にラジオが置いてあって、そこから三橋美智也さんもそうだし、ローリング・ストーンズも、マージービーツの曲も入ってくる。あの頃は、カンツォーネもシャンソンも、世界中の音楽がなんの区別もなく聴こえてきてた。『月影のナポリ』とか『恋の片道切符』とかさ。漣健児が大体の権利を持っていて、日本語に翻訳されて歌われていたんだ。弘田三枝子さんとかも全く違和感なかった。そういう時代だった。良い時代に育ったなーと思う。どこの国の音楽でもOKな感じさ。今のヒットパレードに、シャンソンとかカンツォーネとか入ってこないでしょ(笑)。本当にジャンルレスだったんだよ。今は例えばアメリカでもリズムアンドブルース部門とかってカッチリ分かれているでしょ? だからラジオ局も似た様なジャンルでしかかけないとかさ、つまんない感じあるよな。
俺はそんな素地の上にビートルズの存在とか、ロックの洗礼をまともに受けちゃったから、こんな風になっちゃった。最初ラジオの『9500万人のポピュラーリクエスト』で聴いたビートルズの『プリーズ・プリーズ・ミー』は衝撃だったし、「ロンドンからリバプールへのお返し! 黒い稲妻ローリング・ストーンズ!」って出てきた時なんかはさ、この人たち人相悪いよなーとか思ってた(笑)。聴いてみても、あんまり上手な感じもしないと思っていたけど、今聴くとね、本当に彼らの曲づくりは上手いわ。『テル・ミー』とか、どの曲にしても、あれ黒人の人たちが歌えるよね。黒人が歌っても全然違和感ないソウル・バラードをいっぱい創ってる。オーティス・レディングが『サティスファクション』歌っても、なんの変なこともないもんね。
そんな風にさ、アニマルズとか、いっぱいいた中でも俺にとっては、やっぱりビートルズが最高のものだった。ビートルズの中でも、シングルのB面に『マニー』とか、黒っぽいものが必ず入っていたしね。ビートルズの場合はもうあまりにぶっ早いというか、ロッケンロールだから、歌も聞き惚れるしね。だけどストーンズを聴いてみると、C〜F〜Gって同じコード進行で回してて、それでどんどん盛り上げていく流れがあった。あっ、これがブルースなんだな!って、後に知るんだよ。
民謡もマージー・ビートもカンツォーネもブルースも熱度があれば一緒くた。内田勘太郎に惹かれて止まない理由は、心躍るグルーヴと、どこか懐かしい匂いのする音色なのです。(2/2)☞続く
*浜口 庫之助
1917年生まれ、日本のシンガーソングライター。帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとしてキャリアをスタート。戦後は進駐軍を相手に演奏を行い、灰田勝彦の誘いを受けハワイアンバンドのメンバーとなったり、自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して音楽活動を続ける。「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場。1960年代からは数々の名曲をミュージシャンに提供した。
*三橋 美智也
民謡で鍛えた伸びやかな高音と絶妙のこぶし回しを持ち味に、昭和30年代の日本の歌謡界黄金期をリードし、数多くのミリオンセラーを連発。販売枚数は歌謡界史上最多の1億6千枚といわれている、昭和歌謡界を代表する男性歌手の一人[3]。特に全盛期の昭和30年代前半は「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの絶大な人気を誇った。
*漣 健児
作詞家、訳詞家であり、日本の音楽出版ビジネスの先駆者であり、1960年から原盤制作を行い、JASRACの初代理事も務めた。『朝日のあたる家』『ルイジアナ・ママ』『L-O-V-E』『可愛いベイビー』など、総数は400曲を数える。訳詞というよりも、もはや超訳の域に達していたのは有名な話。
*弘田 三枝子
歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された。後のミュージシャン(都はるみ、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた。ジャズで鍛えたスキャットを得意とし、決まったコードの中で様々な絵が描けるので、あらかじめ決めないでスリルを感じながらその場でスキャットを奏でて楽しんでいたという。
Profile
Name: 内田勘太郎
DOB: 1954年
POB: 大阪府
Occupation: ギタープレイヤー
https://www.uchidakantaro.com
内田勘太郎(うちだ かんたろう)プロフィール
1970年憂歌団結成。1975年、そのリードギタリストとしてレコードデビュー。ブルースを基調にした独自の世界で全国を席捲し、熱狂的な人気を得た。その天才肌のギタープレイの評価は高く、日本を代表するギタリストとして名を馳せる。70年代当初のカルピスの瓶首を使ったスライド奏法も有名。数々の有名アーティストとのセッションやレコーディング、CM音楽なども多数手がける。
1998年、アルバム『マイ・メロディ』でソロデビュー。1999年より憂歌団無期限活動休止に入り精力的にソロ活動開始。2013年、15年振りに憂歌団再始動。2014年からはソロ活動に加え、憂歌兄弟、憂歌団と活動の幅は広がったが、現在その動きは無い。2016年、初のエッセイ集『内田勘太郎 ブルース漂流記』を刊行。2016年リリースの通算8枚目のソロ・アルバム『DEEP BOTTLE NECK GUITAR』を機に、15歳の時に始まったブルースの旅は半世紀近くを経てデルタブルースに回帰。圧倒的なボトルネック・ギターと指弾きで奏でられる音色は表情豊かで、フィーリングとトーンを肝にジャンル問わず展開中。2019年リリースの『Tohgen Kyo』を含めたソロアルバムは現在9作品。(内田勘太郎トリオ1作品含む)
ソロライブと併行して独自企画として開催しているセッションライブ「YOKOHAMA MEETING」をきっかけに結成した、うじきつよしとの【子供団】、TOSHI-LOW・KOHKIとの【ブラフ団】でも2018年より全国各地に出現中。更に2019年、甲本ヒロトとの新ブルース・ユニット【ブギ連】でアルバム『ブギ連』リリースと共にデビューし、ライブツアーは即完売。話題沸騰した。
最新作は予期せぬコロナ禍での2020年リリースとなった【奇妙礼太郎と内田勘太郎】名義のアルバム『アイコトバハ』。
コロナ禍に入り2020年よりYouTubeでの動画配信とstand.fm 内田勘太郎「秘密の牛小屋」での毎日音声配信をスタート。
YouTubeではメンバーシップも開始。毎月のYouTube LIVEも好評継続中。
2022年6月よりコロナ禍による延期公演からツアー再開。徐々に活動の場を拡大中。
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