October 14, 2017
1981年會津若松生まれ。ペインター。デザイナーズ家具や内装空間に多大な影響を受けた事から絵画をインテリアの一部として捉えた”生活空間との共存”をテーマとした制作活動を行う。空間と絵画を共存させる事は絵画そのものを雰囲気として認識させる必要性があると考え、抽象表現にこだわったスタイルを追求。曲線で構築し反復する独特な作風で個人邸やホテルなど数々の内装壁画を手掛ける。2017年には『adidas Skateboarding』とのカプセルコレクションをグローバルで発表し話題を呼んだ。その他国内の伝統工芸や観光地とのコラボレーション、アーティストコレクティブ『81BASTARDS』の一員としても活動している。
子供の頃は、野球やったりスキーしたり、川遊びや山遊びもしてアクティブな少年時代でした。絵を描くのも好きでしたけど、それより外で遊ぶ感じでしたね。中学生から洋服に興味を持ち始めて、その延長上にインテリアとして家具があった。高校生になる頃、だんだんとインテリア的なものへの興味が強くなり始めて、ミッドセンチュリー・モダンに憧れました。そこから色々なデザイナーを知っていったんです。さすがに当時は買うことなんて出来ないからずっと憧れとして抱き続けた青春時代でした。18歳で東京に上京した頃になって、ある程度自分でお金が使えるようになってから、今までカッコイイな欲しいなと思っていた物をちょっとずつ買う事が出来るようになりました。それと同時に自分と共通の趣味を持つ仲間達も出来た。
僕が小さい頃からウチの親父はなんでも出来たんです。何でも出来たし何でも知ってたし、本当に凄いなと思ってました。今でこそ自分が関わる専門的な知識は僕の方が俄然詳しいですけど、昔は全てのことを自分より知ってたし出来ちゃうから強い憧れがあった。僕も将来子供を持った時そういう父親像でありたい。
ずっと洋服に関わる事がやりたいと思っていたから文化を目指しました。ただ高校生活での出席日数が足りなくて、僕には文化服装学院を受ける資格がないって言われたんです (笑聲) 。それでも諦めきれず他の服飾の専門学校に行ったんです。類は友を呼ぶって言葉があるように、上京したその学校には趣味嗜好が似てる人達が沢山いました。それに東京は情報が早いし、何でも直ぐに買いに行けるし、凄く新鮮で楽しかった。その一方で学校では地方出身でナメられたくない気持ちが大きかったということもあって、出来るだけ早く訛りを無くす努力をしてましたね。一生懸命標準語アクセントを習得する感じです (笑聲) 。専門学校では地方出身の人間の方が多いはずなのに、みんな地方感を露出しないし、特にファッション専門学校だったから周りも絶対ナメられないぞって尖ってた人間が多かったと思うんですよね (笑聲) 。
洋服の専門学校には3年間通わせてもらいましたけど、3年目には自分の中で洋服よりもだんだん絵にフォーカスしていったんです。周りのみんなが僕の描いた作品を凄く評価してくれて、それがどんどん自信に繋がっていきました。少なくともこの道でやっていこうかなって思う一つのきっかけにはなった。その仲間達がいなかったら絵描きにはなっていなかったと思います。未だにその時の仲間とは良い関係で、時々仕事もするし、僕にとって本当に大きな財産になっています。絵を描いて一番最初に対価を払ってくれたのもそういう仲間だった。
一度はアパレルの会社に入ったんです。だから組織ってものにある程度揉まれてはいたんですけど、その当時、僕が働かせてもらっていたブランド側のスタンスが僕には合わなかった。まぁ時代ですね。カッコイイ事よりもより売れる路線でやっていた時代。それが凄く嫌で、スタイルないじゃんって。カッコイイいと思うもので勝負というよりもシンプルにロゴをドーンが売れるからっていうのが主流の中で仕事をして、左右されているようじゃ此処にいても自分が成長出来ないなって思って辞めたんです。カッコイイと思う事、自分がやりたい事をしたいなら独立しかないと思ったんです。今考えると浅はか過ぎましたけどね (笑聲) 。
両親にも三十歳までに芽が出なかったら辞めるって約束もしてとことん突っ走りました。まだお金もほとんど無い時に、もうこれでいくしかないと決めて肘から下に刺青も入れてたし。もう真っ当に生きれないよって意味を込めて(笑聲) 。最初は何をしたらお金になるのか右も左も分からなかったんです。洋服のデザインをさせてもらっていた時のツテで先輩や友達が仕事をくれるくらいで、どうやってお金を稼いでいいか全く分からなかった。だから少しでも人に会わなきゃって夜遊びをするようになりました。そうこうしていくうちに、当時クラブでライブペイントをやってた面々と出会うようになって、一緒にやらせてもらったりしながら、ネットワークを広げていった感じですかね。もちろんその頃から既にモコモコは描いてました。今みたいな形ではなかったですけど、それが自分だって周りに認知してもらう事を常に考えて描いてましたね。今後もどんどん形は変わっていくと思いますけど、僕のモコモコは僕のモコモコでしかないんです。
一番困ったのは家賃を払えなかった事ですね (笑聲) 。返す当てもない借金もしたし、両親や兄弟、当時の彼女にもめちゃくちゃ迷惑をかけました。どれだけ辞めろって言われたか…、真っ当に働きなさいって。当然食えてないんだから、正論なんですけどね (笑聲) 。でも言われる度に『絶対大丈夫だから待ってろ』って返し続けてました (笑聲) 。根拠のない自信だけで生きて来たんで、思考が凄くポジティブなんです。だから苦しい時も確実になんとかなってきたんです。甘いのかもしれないけどその精神で突き進んだ結果、今があるって事なんじゃないかな。正確には覚えてないですけど食べれるようになってきたのは二十代後半くらいだったと思います。あの時の自分と比べたら今はもちろん余裕がありますけど、今後いきなり仕事がなくなる可能性もありますからね。やるべき事もまだまだあるし現状には全然満足出来てないです。まぁ僕らみたいな職種の人間は一生満足出来ないんでしょうけどね (笑聲) 。
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