自分にしか出来ないHIPHOPを探す心持ちを必死に持ち続けた。今もその部分は変わらない。DJ KRUSHインタビュー

-
INTERVIEWS:
DJ KRUSH/SOUND CREATOR/DJ


お金がなかったから、そういう発想になっていくわけだ。楽しいよ、想像力をフル回転させないといけないから、今はみんな机の上に並んでるよね!?HIP HOPもそうだと思う、リズムマシーンは買えないし、家にあるマイクを使ってなんとか表現しようっていうところだと思うんだ。

俺が子供の頃は、共同便所六畳一間の狭いアパートに家族4人で住んでた。そんな狭い部屋なのに親父は、TRIO(註釈) 4チャンネルSQ方式の物凄くデカい昭和の家具調ステレオをブチ込んで、俺に花火の音なんかを聴かせるわけだ。「お前、真ん中に座ってみろ!どうだ!?もう頭の真上で鳴ってるだろ!」ってね。(笑聲)時にはJBSANTANAMilesとか聴いてた。親父は音楽が好きだった。

当時は、貧乏でプラモデルさえ買ってもらえない。同級生には、お金持ちの子がいて買ってもらえるわけだ。その子が作り終わった船や車、その余ったプラスチックのフレームや部品、とにかく色々なゴミを貰ってきて、自分でそのバラバラの部品を繋げてロボットを作ったりした。そういう事をやってたんだ。今思えば、それは結局HIP HOPと同じで、サンプリングで色々なところから持ってきた音を組み立てて一つの作品にしていくっていう事だったんだ。

小学五年生の時に鼓笛隊に入って、物心ついた頃にはロックバンドでドラム担当になってた。友達の家に集まって雨戸バーンッと締め切って練習するんだ。ベースや弦楽器は小さいアンプ入れてたけど、ドラムはどうにもならないじゃない?その子お金持ちだからキッチンに行って今まで見た事のない洋物のクッキーの缶とかみんなで食っちゃって、その缶の蓋を並べて自分でドラムを作ったりしてた。ドラムのキックペダルとスティックだけは学校から拝借してきてね。(笑聲)それで*Smoke on the Waterとか叩いてた。お金がなかったから、そういう発想になっていくわけだ。楽しいよ、想像力をフル回転させないといけないから、今はみんな机の上に並んでるよね!?HIP HOPもそうだと思う、リズムマシーンは買えないし、家にあるマイクを使ってなんとか表現しようっていうところだと思うんだ。

隣に住んでたやんちゃなお兄ちゃんたちがドーナツ盤のブラックミュージックを聴いてた。ロックもパンクも色んな音楽が好きだったけど、それを聴いた時に凄くリズムが違う感じがしたんだ。言葉に出来ない衝撃だった。それからブラックミュージックに興味を持ってレコード集める様になっていったんだ。俺にはこっちの方がノリに合ってた。COMMODOORESStevie WonderKool & the Gangの古いやつなんかを聴いてた。だからHIP HOPのネタになるようなものを、リアルタイムで聴いてた。今でも、そのあたりの日本盤の7インチは持ってる。どうして同じ16ビートなのに、スネアハットキックのGROOVEがこんなに違うんだろう?そこに凄い興味を持っていったんだ。だからS.O.S. Bandが来れば観に行くし、昔のファンク系のバンドやブラック系もよく観に行ってた。俺、MUGEN(註釈)には結構通ったんだよ。ライブやる時に丸いブースがレッカーみたいに上がっていくんだ。バンドが終わるとブースがビューンとステージの真ん中降りてくる。人がちゃんと乗っかってて可愛いんだ。(笑聲)中がブラックライトで光るようになっててまた中が怪しい。視覚的にもやられるし、そんな中でファンクが太い音で出てるわけだ。シビれたね。今はそういう場所がないよね。

綺麗に身なり整えて、真っ白なテーブルにナイフアンドフォークで食べるよりも、俺はマンホールから世の中を覗いていく方が世界をちゃんと見ることができるんだ。俺は今でも道端感を大事にしてる。

Wild Styleを観た時は、本当に衝撃的だった。Wild Styleのストリート感に自由を感じたんだ。あるものでやるっていう、その不良感に見事に心惹かれて行ったんだ。ターンテーブル二台っていう発想も凄いし、普通二台使おうなんて思わないでしょ!?(笑聲)あの時代に彼らは訴えたい事があった。それは銃で戦う代わりに、マイクを持って戦えっていうメーッセジだった。グラフィティーにしても彼らは、みんな同じスプレー缶を使っているのに全然違うデザインを描いたりする。物事を発想する想像力、そこがもう際限なく自由なんだ。若い時には力はあるけど迷うし、どこに向かえば良いか分からない。でもそれを観た時、やっぱり俺もこの先どう生きようかって事を考えさせられた。時代背景もあるけど、あの映画がきっかけで本当に自分がやりたいことがスパっと見えたんだ。

その何年か後には、Lee Quiñonesにも会えたし「君らの映画を見て俺はHIP HOPを始めたんだ」って思いも伝えられた。*Futuraと一緒に仕事も出来た。共通して言える事は、彼らは自分にしか出せない独特な個性を持っていた。もちろん他にも素晴らしいアーティストはたくさんいたけどみんな道端だった。道端で踊って、道端で描いて、道端に出て音出して、ラップで言いたいこと言い争って吐き出していく。俺も遊びまわっていたのは道端だったし、女の子ナンパするのも道端、高級ホテルではなくて道端で育ってきた。道端に立ってるボロい赤提灯でお酒飲んだり、道端の割れてるガラスだったり、道端のゴキブリの死骸だったり、その方がピンと来るんだ。綺麗に身なり整えて、真っ白なテーブルにナイフアンドフォークで食べるよりも、俺はマンホールから世の中を覗いていく方が世界をちゃんと見ることができるんだ。俺は今でも道端感を大事にしてる。だからこそWild Styleはあまりにも決定的だった。彼らがやってる表現、それはお金をかけてものを買うんじゃなくてあるもので表現していく発想だった。やっぱり映像や音含めWild Styleがこの道を授けてくれたんだ。

初めて人前でパフォーマンスしたのはホコ天だったし、MUROとも原宿で会ってる。当時は竹の子族とか、ブレイクダンサー、沖田浩之くん、ロックンローラー全盛の時代だ。その後に、クラブDとかHIP HOPが流行りだして、DJコンテストが色々な場所で始まるようになった。賞金と商品が欲しくて常に参加して荒らしまくってた。(笑聲)3位以下になったことはないよ。スチャダラECDRhymesterの前身だったギャラクシーとかっていう人たちも出てた。俺は二回目の大会で優勝獲って、それからクラブで回すようになったんだ。それでKRS-OneとかDream Warriorsが日本のタワレコ来た時に前座やったりすると「今度六本木に新しいクラブ、ドゥルッピードゥルアーズができるからKRUSHやらない?」って声が掛かったりね。その頃は、*DJ HONDAと一緒にやったりもしてた。

自問自答の繰り返し、アメリカのHIP HOPを追いかけても仕様がない。自分にしか出来ないHIP HOPを探す心持ちを必死に持ち続けた。今もその部分は変わらない。

俺は中卒だけど絶対に負けない、自分の子供に自慢できるような背中にしたいと思った。でも音楽っていう細い道を選んでしまった、今も昔もそこで食べてくのは難しい。「お前、そんなレコードばっかりこねくり回して、飯食えんのか!」って事も結構言われた。生活していくうえで毎月出て行くものは決まっている。だけど俺には音楽が向いてるって心の中のどこかにあった。でもやっぱり現場に出て稼いでこないとダメだ、、、。当時は、その狭間でなんとか生きてた。

そんなある日、原宿の歩行者天国でブレイクダンサー相手に回してたんだ。そしたら*Keith Haringがパッと来て「凄ぇーいいじゃん!」って言ってくれたんだ。目の前の道端にチョークであの絵をバーっといっぱい描いてくれた。その時彼が「やり続けろ!」って言ったんだ。もうやり続けるしかない。自問自答の繰り返し、そしてアメリカのHIP HOPを追いかけても仕様がない。自分にしか出来ないHIP HOPを探す心持ちを必死に持ち続けた。今もその部分は変わらない。ツアーに行く時も、みんな俺が店から出てくるのを待っててくれてるんだ。だから俺はセキュリティとお店が許す範囲で出来る限りの事をして帰ってくるんだ。「KRUSHの音聴いて救われた。」って俺がKeithから貰った言葉のようにね。

当時、ラップなしでHIP HOPやる事は考えられなくて、俺は何をすべきか分からなくなってしまった。一時は路頭に迷ったし、DJを辞めようとまで思った。だけどやっぱり音楽が好きで離れられなかった。

振り返るとKRUSH Posse(註釈)の時は、MUROがセンターに立ってラップをしてくれる。俺らはバックでMUROがラップしやすいよう綺麗にビートを繋いでいく役割だった。MUROの為に、良い景色を作る役割だったんだ。でもKRUSH Posseが解散して、フロントの人間がいなくなってしまった。当時、ラップなしでHIP HOPやる事は考えられなくて、俺は何をすべきか分からなくなってしまった。一時は路頭に迷ったし、DJを辞めようとまで思った。だけどやっぱり音楽が好きで離れられなかった。

そこでMC、ラッパーがいなくなって何をすべきなのか考えた。TVOのリミックスがイギリスでの評判も良くて、音で自分の世界感を作っていくべき事に気がついた。当時のインストは、Kenny Dopeタイプのループで「使う用」のラップをする人のためビートだったんだ。もちろん*45kingとかも素晴らしいループだけど俺はもっと色をつけた違うタイプ、もっと映像が出てくる音を作らないと駄目だって思ってた。DJ GOくんはNYよりのHIP HOPマナーでネタをチョップして、俗に言うHIP HOP的なものを作ってた。俺はやっぱりその当時から誰も使ってないネタを引っ張ってループさせた。でも彼らにしてみたらHIP HOPマナーに乗ってないとHIP HOPじゃないと思ってたかもしれないし、その頃からそういう意識の差も出てきた。

音楽に本腰いれ始めると収入もなくなってくる。俺は子供もいたし、命懸けだった。寝ないで必死にデモテープをいっぱい創った。それを周りで支えてくれた家族や賛同してくれるスタッフ、一緒にやってたDJ、ラッパー、ブレイクダンサー、みんなに支えられて励ましあいながら、いつか獲ろうぜって進んできた。だから結果的に解散したことはお互いに自分を見つめる事になって良い結果に繋がったと思う。

HIP HOPアプローチでいけばソロは切れるよ。でも俺はそういうスタイルじゃなくてバンドが鳴ってる音の上に、Milesのレコードミックスしたりだとか景色を作ることを目指した。

JAZZY UPPER CUT(註釈)の頃は、みんなHIP HOP一辺倒だった。俺は音符も読めないけど、バンドの中で自分なりのスクラッチをしようと敢えてバンドに足を突っ込んでいくんだ。リズムを崩さないでビートを入れたり、スクラッチをやったりね。HIP HOPアプローチでいけばソロは切れるよ。でも俺はそういうスタイルじゃなくてバンドが鳴ってる音の上に、Milesのレコードミックスしたりだとか景色を作ることを目指した。決定的な出来事だったんだ。

楽器を演っているとギターソロやドラムソロが回ってくるんだ。「お前、ソロ出来るか?」って言うから「出来ない」っていうのは悔しい、ワンツワンツーやってても面白くない。「DJが他人の盤こすって何ができるんだよ!」「ソロ切れないんだろ?」くらいの調子だったからね。ギターに負けないソロを切れるにはどうしたら良いかを必死に考えていった。そこで考えたのが、キーのあるものを凄いロングフレーズもののピッチとキーを変えてスクラッチを入れたり、*ジミヘンのギターを蘇らせたりとかするわけだ。そうするとギタリストも面白がってセッションしたりするんだ。バンドの連中も懐疑的だったけど、徐々にやってる事を理解し始めて認められてきた。ギターやベースは指を思いっきり動かして音を高く出来るけど、DJは音変えるにはピッチの中でキー変えるしかない。そこでキーの大切さ、ピッチの大切さを知った。

当時はアナログ盤で耳だけが頼りだったから苦労した。俺らやっぱりレコードにゴミつけないでピッカピカにしてゆっくり持って!みたいなアナログ世代だ。アナログはアナログの良さがあるし、デジタルはデジタルの良さがある。DJスタイルも変わってきて、今やレコードを持たないでHDの中に何千曲って曲が入っていてセラートでDJをする。それはそれで助かっている人たちもたくさんいるよね。じゃあ音質はどうなんだって?そこは賛否両輪ある。デジタルがアナログに近付こうとか、そういのじゃなくて使う側がちゃんと使い分ける。俺は両方好きだからこそ、そういう風に割り切っていくようにしたんだ。俺もこういう職業だけど、家のリビングにタンテ一台と真空管入れて一回一回聴くシステムを作ろうかと思ってる。

ドラマ仕立てで頭の中に考えたものを直接音にしていく、特にインストものはそれをやらないと聞いてる側も映像が浮かばない。勿論同じループの繰り返しでもグルーヴは出るけど、俺はもっと映像的なものをみんなの頭の中に与えたいんだ。

MO’ WAXと契約してた頃、DJ SHADOWが出てきた。音は全然違うけどやってることは近いと思った。ラップは乗っかってないのに、凄いHIP HOPを感じたし自由だと思ったんだ。俺とは違うスタイルでちゃんと自分を表現していたし、自分なりのHIP HOP哲学を吐き出してた。初期のMO’ WAXの頃、車で泊まってギャラもほとんどもらえないイギリスツアーを一緒に回った。(笑聲)運転手がいて、助手席にはJames Lavelle、俺の前にはSHADOW、その前にはSTASHがいてバンで回ったんだ。毎晩クラブに行くと、STASHは俺たちがDJやってる間に、バーっとグラフィティーを描いて残すわけだ。あの当時、もちろんお金は貰えなかったけど自分たちのやりたい事は出来てた。大変だったけど全てが刺激的で楽しかった。そのツアーでも、観客はまだ気が付いてないんだ。BPM80とかの曲かけても踊れないから、お客さんはポカーンとしてる。(笑聲)でも俺はそれが凄い新しい事だと考えていたし、みんなに聴かせたかった。だけどこんなのHIP HOPじゃないっていう意見も多かったし、当時は厳しいものがあった。HIP HOPに対する解釈が違ったんだ。

もちろんHIP HOPには凄く大きな影響を受けてるけど、俺はHIP HOPを作ろうとは決めて作ってないんだ。自分なりの個性を吐き出したものが、たまたまどこのジャンルにはまらなかっただけなんだ。俺は、大都市のビルが乱立してる中、高低差なく中間ぐらいを微妙にぬって最終的にストンと着陸するような映像を思い浮かべて曲を作っていく。曲中で右に急旋回していったりする様な具体的なイメージを考えて、そこに必要な右に逸れる感じの音を一生懸命サンプリングで探すんだ。そして「あ、これだ!」ってはめていく、それでまた離れて全体を見て、そうやって色んなドラマを作っていく。ドラマ仕立てで頭の中に考えたものを直接音にしていく、特にインストものはそれをやらないと聞いてる側も映像が浮かばない。勿論同じループの繰り返しでもグルーヴは出るけど、俺はもっと映像的なものをみんなの頭の中に与えたいんだ。

日本は特に誰かが判子押さないと右に習えの社会だ。KRUSH Posseで大手のレコード会社にデモテープ持って行った時も理解してもらえなかった。海外で新しい色々な音楽が産まれてきてた時代だったし、アメリカもイギリスも90年代は凄い楽しかった。Acid jazzが来て、MONDO GROSSOUFOMonday満ちるとかがバーンときて、Galliano、Brand New Heavies。KEMURIが話題になる前にも「STRAIGHT NO CHASER」の*Paul Bradshawに送ったデモテープがチャートインしたり、誰かが新しいって言ってるから新しいじゃなくて、「俺は新しいと思う!」そういう耳で聴いてくれた。

音楽に関して言えば、スピーカーからドン!と音を出してしまえば、それが俺らの言葉だからね。彼らもそれを体で理解するしビートをゴン!と出せば、音楽を作る時はそれで充分なんだ。

自分の国の歴史には、気持ちがビシッとなる部分はあるんだけど過剰に意識はしていない。俺は、この国に生まれてこの国の米を食って、梅干しを食って、味噌汁を飲んで生きてきた。そういう空気がDNAの中に入ってて、それを自分なりに音楽を通してニュアンスを出せれば良い。確かにMEISOUの頃は尺八を入れてるけど、どこかで不自然さを感んじてた。子供の頃から尺八や三味線の音を聴いて育ってないし、唯一触れてるのは盆踊りくらい。(笑聲)だから逆に日本の伝統ものを取り入れる事には抵抗があったんだ。正直、洋モノばかり聴いてたし、和モノ聴いてたって言っても演歌とか歌謡曲だったからね。(笑聲)あとは子供の頃、日本のアニメや、ウルトラマン、仮面ライダーとか、黒猫のタンゴとか聴いたくらい。(笑聲)ましてや侍の文化も特別に勉強はしていない。そのずっと後にDJになって世界に出て行ってようやく我を見て比べる。そこで西洋にはないけど、日本には素晴らしい音、日本独特の間がある事に気がついたんだ。

迷走のレコーディングが初めてのアメリカだった。当時は、HIP HOPの聖地でどうして良いか分かんなかった。俺らが聴いてた*CLや本場のHIP HOPの連中と出来るわけだから気負いもあった。CLの曲には宝山の尺八を入れたけど、ビシッと日本刀を出したかったんだ。「どっからでも来い!」みたいなね。(笑聲)当時はHIP HOPが生まれた国で必死だったけど、何か日本的な部分をぶつけたかったんだ。だから戦いだった。でも音楽に関して言えば、スピーカーからドン!と音を出してしまえば、それが俺らの言葉だからね。彼らもそれを体で理解するしビートをゴン!と出せば、音楽を作る時はそれで充分なんだ。

俺が作った音は、パスポートなし、国境なし、もう自由に感じて欲しい。俺はそういう想いで創ってる。

アルバムが完成した時は満足するんだけど、すぐに次はこうしようっていうアイディアが湧いてくる。毎回その流れは変わらないんだ。ものづくりは、やればやるほど自分の力の無さを発見出来ていく、それを死ぬまで埋めていくんだ。最終的には全部埋まらないんだろうね。判断するものなのかさえわからないけど、人のためにどこを目指すのか?人はそれぞれ目指すところが違うよね。じゃあ商業的なもの、売れるものを作るの?それもわからない。俺がやってるのは、自分が納得出来るもの、嘘をついていないもの、現状自分が感じているものすべてを吐き出して届ける。ある意味俺は、ファンの為には作ってないかもしれない。「解ってくれ!」くらいの気持ちだね。言ってる事はすごい我儘だよ。だから尚更そこにKRUSHがいなきゃいけない。KRUSHが出しているニオイがする音や映像。それが凄く大切で自分にしか出来ない空気感だったりとか、リズムだったり間だったりすると思うんだ。それがポンとなくなっちゃったら、聴く必要すらない気がするんだ。

俺が作った音は、パスポートなし、国境なし、もう自由に感じて欲しい。俺はそういう想いで創ってる。ココ何年かの世界中の動き、テロに伴う動き、そんな中でも世界中のDJたちは呼ばれれば飛行機に乗って空港駆けずり回ってる。いつ何が起こるかわからない状況の中、何が出来るか問い続けながら今まで以上に音楽を残しておきたい、いつも心の奥でそう想ってるんだ。

*TRIO:
1946年から続く老舗オーディオメーカー。山水電気、パイオニア、オンキョーと並びオーディオブームの全盛を支えた。1969年には東証一部に上場、トリオレコードとして音楽事業にも進出。その後、社名をKENWOODに変更、日本ビクターと技術開発合弁、現JVCケンウッド。

*MUGEN:
浜野安宏氏プロデュース。サイケデリックで強烈な色彩の空間であり、ライブハウスも兼ねていた。レコードではなく黒人バンドによる生演奏を特徴とした。三島由紀夫、川端康成、澁澤龍彦、田辺茂一、丹下健三、小沢征爾などの各界大御所、当時若い世代であった横尾忠則、篠山紀信、加賀まりこ、安井かずみ、三宅一生などが通った語り継がれるべき場所。アイク&ティナ・ターナー、サム&デイブ、コン・ファンク・シャンなどのド迫力ライブの最前列で、タイガースやスパイダースやジャズ界の面々がのりにのっていたという熱狂の店。

*KRUSH Posse:
KRUSH Posseは、B Flesh 3のメンバーであった、DJ KRUSH、Muroが独立し、DJ Goが加わって結成されたユニット。1990年にリリースされた自主制作コンピレーションアルバム「Yellow Rap Culture In Your House」に収録された「K.P.」。1992年にリリースされたコンピレーションアルバム「Dance 2 Noise 002」に収録された「Chain Gang」。当時のアンダーグラウンド・ジャパニーズ・ヒップホップのコミュニティにおいて、絶大な影響力を持ちつつもわずかな楽曲を残し解散。

*JAZZY UPPER CUT:
JAZZY UPPER CUTは90年代前半に活動した大所帯バンド。メンバーはラップの桑原延享を中心に、石渡明広(G)、早川岳晴(B)、寒川光一郎(SAX)、元ヒカシュー・つの犬(Dr)、そしてスクラッチにDJ KRUSHが参加という豪華メンバー。ヒップホップ、ジャズ、ファンク、ロックが混然一体となった凄まじいテンションの演奏とラップでコアなファンを生み出していたが、わずかな活動期間で解散。


サウンドクリエーター/DJ。選曲・ミキシングに於いて抜群のセンスを持ち、サウンドプロダクションに於ける才能が、海外のクラブ・シーンでも高く評価されている。1992年からソロ活動を精力的に行い、日本で初めてターンテーブルを楽器として操るDJとして注目を浴びる。1994年に1stアルバム『KRUSH』をリリースし、現在までに10枚のソロ・アルバムと1枚のMIXアルバム、2枚のセルフリミックスアルバムをリリース。ソロ作品はいずれも国内外の様々なチャートの上位にランクイン。現在も年間、約30カ所以上のワールドツアーを敢行している。地域を越えて、多岐に渡り高い評価を得続けるインターナショナル・アーティスト。

Name: DJ KRUSH
DOB: 1962
POB: Tokyo, Japan
Occupation: SOUND CREATOR / DJ
http://www.sus81.jp/djkrush/
https://twitter.com/djkrushofficial
https://www.facebook.com/DJKRUSHofficial/
https://www.instagram.com/djkrushofficial/
https://soundcloud.com/dj-krush-official

RECOMMENDS