アーティストは人を幸せにして「なんぼ」の商売。日本人の精神世界の諧謔を弄する籔内佐斗司の生き様。(2/2)

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INTERVIEWS:
籔内佐斗司 / 彫刻家

どこかの誰かさん、テレビや雑誌で特集で組まれた概念を押し付けられている現代。守銭童子は見ている、反骨屋あかん兵衛、一路邁進 香車童子・・・籔内佐斗司が作品を通して発するメッセージは、古から伝わる物語に、独創性が加味され見る人の魂を掴む。アーティストは人を幸せにして「なんぼ」の商売。日本人の精神世界の諧謔を弄する籔内佐斗司の生き様。(2/2)

他に脳がない私
私を変えた他人

私に記憶はありませんが幼稚園に上がる頃、母親に絵描きになると宣言していたとのことです。家にあるチラシの裏や兄の作文の原稿用紙の裏に絵を描いて怒られたりと。とにかく白い紙があると何かを描いていたそうです。ですから物を作ったり、画を描いたりする以外には能のない子だった。私の親からは、有難いことに「好きなことをしたらいい」というふうに育てられまして、藝術を志すことを反対されたことはありませんでした。父親がサラリーマンでしたから、今思えば勤め人はつまらんぞという気持ちがあったのかもしれません。もっとも、ほかに能がないからしょうがない(笑)。

藝大の美術学部と大学院で彫刻を専攻して、大学院を出る頃になってはじめて「俺、これでどうやって食べて行くのかな」と、まぁ呑気なものです。大学を卒業して彫刻を続けることは至難のことですし、でも彫刻からは離れたくないという思いから、大学の中の保存修復技術研究室に入り直しました。絵画や彫刻の古典技法と文化財の修復を研究する小さな研究室でした。

大学内の人事問題で、日本画科の平山郁夫先生が兼担教授として来られました。私は人に巡り合うよい縁に恵まれていました。平山先生の方針は、文化財赤十字構想のもと、幅広い分野を積極的に受け入れられました。そして彫刻の世界しか知らなかった私は、貪欲にあらゆる知識を吸収することができました。

彫刻科の澄川喜一先生からは、作品の様式に影響を受けたのではなく、人間として作家としての生き様に強い影響を受けました。先生は、手取り足取りというタイプではなく、ついてきなさいという感じで、何にも教えてくれはしなかった。お陰でよかったと思います。ああしろ、こうしろと言われたら、きっと小さい自分になっていたか、潰れていたかのどちらかでしょう。将棋指しは人に教えてもらうようでは駄目だと、人が将棋を指しているのを見て、自分で覚えた子でなければ大成しないという風に言いますが、そういう意味では私もその類なのだと思います。

日本画家と彫刻家の違い

日本画家と彫刻家の作家活動を通じての両者の決定的な違いを知ったのものこの頃です。彫刻家は食っていけないと思っていた私にとって、日本画家の多くが職業的な絵描きであることに驚き、美術市場が絵を通じて密接に連動していることを知りました。ある時、大手の日本画商の方から「あなたは今まで、何点くらい作品を造ったの?」と訊かれ「500点くらいです」と答えましたが、「それでは少なすぎるなあ」ということでした。要するに美術界にはいくつかのシンジゲートがあり、その中で常に作品が動いていないとマーケットが出来ないということだったのです。

木彫りであまり多くの数は作れませんから、ブロンズ作品を造りはじめました。その頃、彫刻画商は日本画商と違って作品数の管理を全くしておらず、一つの原型から売れるだけ造っていました。その結果、市場には日本を代表する彫刻家の作品がミカン箱ひとつ二千円ほどで叩き売られてしまっていた。それじゃあ木彫りまで値段がつかなくなるから駄目だということで、外国作家や版画家のように一点の原型から造る数「限定数」を決めて保証するようにしたわけです。だから私が、彫刻家としてエディションを保証しはじめた最初の作家ということになります。

己が承け嗣いできた歴史と
文化に根ざした本物の地域特性

私は研究室の仕事と並行して自分の作品も作り続けていました。画商界の寵児であった平山先生の弟子というだけで絵が売れる時代、平山先生の若い門下生たちを応援する展覧会に「籔内くんも出しなさい」なんて言ってもらって仲間に入れてもらったのです。そこへ運よくフジヰ画廊の藤井一雄さんがフラリと訪れてくださり「うちには画は売るほどあるから画はいらいない。挨拶がわりにこのお面をいただきましょう」といって私の作品を買ってくれたのが原点です。その時に藤井さんに拾われなければ、今の私はないでしょう。

その時、私は日本画の世界と彫刻の世界が、まあこんなにも違うものかと思ったものです。市場規模は三桁くらい違ったはずです。90年代初頭、有名な画描きさんであれば鯉を1匹描けば一千万、3匹描けば三千万、5匹描いたら五千万という笑い話みたいな本当の話です。バブルというのはそういうものです。フィレンツェ、パリ、オーストリア、ロンドンもバブルの時に素晴らしい文化が生まれています。バブルのない文化、美術は非常に貧しいです。中国が先頃まで、その状況でしたね。たくさんのアーティストが出て来たし、古美術界も沸騰しました。これからは台湾、東南アジアでしょうけれど、果たして日本の文化は生き残れるのでしょうか。

バブルを考えたとき、日本の江戸時代には豊かな商人たちが文化のパトロンとなり、近松の人形浄瑠璃、上方歌舞伎、上方相撲に支援し発展しました。また浪速商人たちは、私財を投げ打って街の整備にも尽力しました。道頓堀、宗右衛門町、心斎橋という風に豪商の名前が地名として残っています。当時の社会システムは、極めて小規模な官僚機構が、行政と治安を維持し、その他のほとんどは意識の高い町衆に任されていましたから、高い倫理観と自治意識に基づき、教育と文化は庶民ものとして町衆文化として花開いたのです。私は、ここに現代日本人が生き残る叡智があると考えているのです。

20世紀の初めからアートというものから物語性がなくなりました。作品名もコンポジションとかいうように、物語性を排除することがアートだということですが、私の考えるアートはもっともっとふくよかな物語性を持ったものです。「こぼすな様」という私の作品があります。

「こぼすなさまは見てござる 飲んで喰ろうて楽しんだ そなたが立ち去るその跡を」

要は便所の神様なんです、便所で流したものとは、あなたが沢山の命をいただいて、今ここに生きているその結果なのです。これは、禅宗の教えです。そういった物語性がとても大事だと思うのです。彫刻は時を止めたものという印象がありますけど、私はそうではないと思っています。ポンっとこの世に生まれてきて、この世を暫し生きて、そして次の世界に入っていく。これが人生であり、そういった継続したものを作っていきたいのです。

私は、文化はグローバルというよりもローカルなものだと考えています。例えばソニーもトヨタもグローバル企業だというけれど、外国人に言わせればどこまでいっても日本の企業です。それと同じで、美術品もグローバルの装いをしているけど、やっぱり日本です。これからは、押しつけられたグローバルではなく、己が承け嗣いできた歴史と文化に根ざした本物のローカル(地域特性)こそが大切な時代なのです。日本を大事にしないと日本人は生きていけないということです。

感謝のこころ
和合のこころ

私は彫刻家であって、仏師ではありません。仏師は師匠から技術を継承し弟子に伝える伝統工芸的職業で、頂点は国指定重要無形 文化財保持者(人間国宝)です。後進を育成するという義務があります。そのために国からお金ももらえるわけです。創作である彫刻家にそういうものは一切ありません、好きな様にやっていきなさいということです。私の創作的彫刻は、私一代のものであって、師匠から承け嗣いだわけではありませんし、アシスタントがその表現を継承するものでもありません。

人が喜ぶものを作るのがアーティストです。若い作家と話をしていて、自分の作りたいものが造りたいけど、それだと生活がしていけないという葛藤は、「そりゃあんたが不器用なんやがな」と。人が幸せになるものを造ったらええんやと。どの業界でもそうだと思います。人が幸せになるものを造るのがアーティストの使命だと思っているからです。

もともと彫刻業界は、本当にちいさな市場です。そのうえ、デジタル技術の進歩によって、手仕事の評価が下がっています。150年前の産業革命によって、手工業が淘汰されていったのと同じ状況です。作家が、どのようにデジタル技術を活用しつつ、自らの表現を確立するかが問われます。アニメーションも、手描きの部分がどんどんCGに置き換わっていますし、自動車の生産ラインもデジタル技術に置き換わっています。そして、車そのものが、単なる移動手段から、人間活動の一部に組み込まれようとしています。それにあらがうのではなく、ひとびとに喜びを提供する職業人としてデジタル技術を活用し、それが生み出す立体表現が期待されているのです。日本人から、ものづくりの能力を失ったら、日本人でなくなります。アーティストは、過去に畏敬を抱きつつ、未来を創る仕事なのですから。(了)

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1953年、大阪府大阪市にて生まれる。大阪府立三国丘高等学校を経て、1978年、東京芸術大学美術学部彫刻科卒業。1980年、東京芸術大学大学院美術研究科澄川喜一研究室で彫刻を専攻し、修了する。2003年「第21回平節田中賞」「倉吉;緑の彫刻賞」受賞。2004年 東京藝術大学大学院 文化財保存学教授に就任。2005年 特別展「籔内佐斗司in醍醐寺」(京都・醍醐寺霊宝館ギャラリー)。2006年「籔内佐斗司彫刻展 神霊的童子」(香港崇光百貨店有限公司/香港)、「三越美術百年記念 籔内佐斗司彫刻展 百年童子」(日本橋三越、各店)、2007年 高島屋美術部100周年記念展「籔内佐斗司~笑門来福~」(日本橋高島屋、各店)。

【主な野外彫刻】
秋田県<秋田県立近代美術館>、東京<童々広場><青松寺>、神奈川<横浜ビジネスパーク>、石川県<うるし蔵>、愛媛県<久万青銅之回廊><観音寺><四国中央市野外運動公園>、福岡県<博多全日空ホテル> その他、全国多数

Profile
Name:籔内佐斗司
DOB: 1953年
POB: 大阪府
Occupation: 彫刻家
籔内佐斗司の世界
https://www.uwamuki.com
籔内佐斗司オフィシャルインスタグラム
https://www.instagram.com/yabuuchi_satoshi_official/
籔内佐斗司オフィシャルフェイスブック
https://www.facebook.com/uwamuki2960


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