映画作りは、道徳、倫理、正義を疑ったところからしか始まらない。映画監督・阪本順治インタビュー

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阪本順治/映画監督/脚本家


型破り、異端、エキセントリック、奇怪、欠損、そういった人間の傾きが面白い。映画監督・阪本順治の作品は、その突出した凸凹な個性で溢れている。変化しない教育環境の中では「個性を大切にしなさい」と言いながら「どうすれば個性を大切にできるのか」教えてくれない。確定している論説に中指を立てる「熱」がなければ個性は守れない。映画がそう教えてくれる。

映画館に入り浸って映画に興味をもった

数年前、両親を見送りました。二人が倒れ、亡くなるまでの3年間、現場と大阪の実家を百回以上も往復しました。昔は大阪が嫌いでした。大阪人の情とか密な感じが苦手だったんです。思春期の頃から拒否反応を示して、早く親元を離れたいと思っていたのです。家は代々仏師だったんです。のちに祖父は仏師ではなくなり、仏壇商に転じました。祖父は仏像だけではなくさまざまな彫刻に長けていました。瞬く間に、木っ端に見事な鳥や花などを彫るんです。僕も彫刻刀を使って手習いをした時に、無から有を生み出すことの面白さを知りました。そのことが、将来の映画というもの作りに繋がったんだと思います。

実家は商店街の中にあり、ご近所に三つもの映画館がありました。私は不思議な子供で映画を観たとき物語性より、映画ってどうやって撮ってるんだろうという裏側に興味が引っ張られていきました。祖父や両親は、僕に商売を継いでほしかったんですが、そう望めば望むほど、違う道ばかりをひたすら考えてしまいました。彫刻や絵画は道具が見えるしプロセスもわかり、その分、奥が深いことは理解していましたが、同じ表現でありながら、映画づくりが最も摩訶不思議でした。分からないから興味があったんですね。

小中学校と夢中になった映画作り

小学校時代、近所の映画館にタダで入れてもらい、映写室にも入れてもらいました。小学5年生の頃、大阪府警の刑事だった祖父の弟がかなり多趣味な方で、お前、ものを作るのが好きだったら、と8ミリキャメラとフィルム1本を与えてくれました。撮ったものを現像してもらい、映写機を借りて自宅の襖に映した時に、しっかり映っていたのを見て、映画ってこうやって作るんだって少し分かった気がしましたね。ピントや露出も自動ではなく、手動でした。最初に撮ったのは、近くの施設に慰問に来られた皇太子妃の頃の美智子さんです。一般人は誰も施設には入れないので、沿道にロープを張られて人だかりになってました。僕はガキだからロープをくぐって前へ出ると、ちょうど美智子さんが車の窓から、手を振っているところでした。それをうまくパンして、ピントも考えながら撮った。その時、美智子さんと目線が合った気がしたんです。どこかにそのフィルムは残っているはずです。

中学では、8ミリ映画が好きな先生がいて、中学なのに映研を作ったんですよ。映研に入って、運動会の記録映画を撮ることになりました。自転車に乗って、キャメラを回したりしましたね。先生の指導もあって編集も覚えました。主に先生が編集しているのを横で見ていただけでしたが、ナレーションを入れたりもしましたね。カセットテープでの音出しだったけど。

高校に入った頃、NHKが自主製作のコンテストをやったりするほど、空前の8ミリ映画ブームだったんですよ。文化祭の時には、10クラス中7クラスの出し物が、自主映画でした。町中高校生のロケ隊だらけになるんですよ(笑)。文化祭当日は、7つの教室が映画館になっているわけです。僕は脚本とキャメラを担当して、監督は別の子でした。編集するだけじゃなくて、セリフを録音し、タイトルを入れ、凝ったことをしてたんですよね。スタッフキャストの名前を学校のグランドの画に重ねて、フェードイン、フェードアウトするとか。そういうことをやって、小中高と映画作りの基礎中の基礎を経験したわけです。これは監督になれということに近いじゃないですか。祖父の弟が、僕に8ミリキャメラを与えなかったら、もしかしたら違う道へ行ったかもしれない。お袋は、あれがきっかけでお前はヤクザの世界へ行ったと言うんです。あれさえなければ家の商売継いでいたのに、と恨んでいました。亡くなった母は僕が映画を作るたびに、もうこれでええやろ、と言いました。特に『亡国のイージス』の時には、これだけ大きい作品やったんやからもうええやろ、とね。そうは言いつつ、毎度、母は近所のおばさんたちと映画を観に行ってくれるんですけど、ある作品のとき、観た後に電話がかかってきて「観たで。はなしが、ようわからんな。あんたの脚本は隙だらけ。いっぺんうちが書いたろか」って、がちゃんと切られた(笑)。

全部映画のためだった

高校の時に、親に映画監督になるって言ったら、反対されました。で、そんな大阪を離れたいと思いました。京都の太秦に撮影所がありましたが、どうしても京都は時代劇というイメージがありましたので、やっぱり江戸に行くしかないと、思いました。映画雑誌を見ると観たい映画がたくさんあるんですが、大阪はその頃名画座がほとんど閉館し、独立系の作品や旧作が観られないわけです。せめてもと映画監督が書いた書物だけは読みました。大島渚さんが、京都府学連の委員長をやられていたと知り、監督になるなら学生運動を経験した方がいいんだと勝手に思い込み、学生運動が残ってる大学に行こうと思って、横浜国大に入ったんです。後にその話を若松孝二監督にしたら、「変わってるねぇ、サカモトちゃん」と笑われましたが。動機がそうですから、大学に入るなり、自ら自治会運動をやりますと言うような学生でした。前の年に、学内の内ゲバで一人殺されていました。私が入学した年も、僕をオルグに来たセクトの人間が、別れた後にナタとバールで殺されました。政治的なものを勉強するために、新聞会という新聞部に入りました。全然記事は書かなかったけど、ノンセクトとして揉め事の間に入る。まだ、右も左も分からない僕はセクト同士のぶつかりを止める係ぐらいしかできなかったですね。僕はその頃、関西弁ですから、「おら、何やっとんじゃ、うしろ下がらんかい、こらっ」と叫んでいたら、先輩に、君は口が汚なすぎる、と言われて(笑)。

集会を嫌う大学は、大学祭に対しても許可をしない時期でした。でも、僕らは大学から中止命令が出ても、強行突破して大学祭をやるんですよ。自治会の人間が、講義室のガラス戸の鍵を壊して、全教室を開放するんです。4日間開けっぱなし。キャッチフレーズは、“不夜城”ですよ。誰が構内に入ってきてもOKでね、暴走族も入って来るし。正門の外にも通用門の外にも機動隊が待機している。そういう緊迫した状況を経験し、ノンセクトなりに三里塚闘争も経験しましたが、僕の中ではずるいことに、全部映画のためだったんですね。しかも、それをみんなに宣言していたんです。すべて、監督になるためにやってます、と。

なりたいではなく、なると決める

思春期、僕は家出とか、ずる休みを繰り返した人間ですが、将来映画を撮ろうと思ったし、映画監督になりたいと思ってたんですけど、そんなのすぐに挫折するだろうと予測もついてました。なにも成し遂げたことのない、だらしない男でしたから。でも、なると決めればいいじゃないですか。なりたいだと、絶対に挫折する。挫折しないためには「監督になる」と決めるんだと。大学入学が決まって、アパートを借りるなら、松竹大船撮影所の近くに住みたいと思いました。撮影所の近くに住んで、撮影所を見学したいと思いました。守衛さんがいて、簡単に入れてもらえないと思ったから、さてどうしようと。当時映画監督のイメージは、テレビのワイドショーに出てらした山本晋也監督だったんですね。山本監督と同じような赤いアポロキャップを被ってサングラスをして、守衛に「おっ」、と手を挙げたら入れたんだよね(笑)。今は厳しいけど、その頃は緩かったんですよ。入って中を見たら、夢工場と思っていたものが、申し訳ないけど廃屋にしか見えなくて。ボロボロやん、と思いました。

新聞会の中に企画部というのがあって、先輩に、映画人の講演会や上映会を学内で定期的にやりたいと、映画の部署を作らせてくれと頼みました。ダイナマイトプロダクションから石井聰亙(現・岳龍)監督のフィルムを何本か借りたりして、学内で上映しました。その流れで、プロダクションの秋田光彦代表に会って、僕、実は映画の現場で働きたいんですと盛んにアピールしました。当時は、どこの映画会社も社員を採っていませんでしたからね。ある時、秋田代表から電話があって、石井監督が今度『爆裂都市』という映画を撮る、助監督枠はいっぱいだけど美術助手だったら空いてる、申し訳ないんだけどギャラは20万しか渡せない、と言われました。それがね、5ヶ月拘束で20万だった(笑)。それでも、石井監督の大ファンだったからうれしくてね。現場は初めてだったけど、毎日徹夜で、映画ってこんなにきついんだと思いつつ、喜びの方が勝ってましたね。コネが出来たのはそこからです。コネが見つかったら、今度はやれることはやろうと思いました。お金をかけずにできることは脚本を勉強することでね。ワープロもパソコンもないから、手書きで脚本を書いてはATG脚本賞とか城戸賞とかに応募していました。全部一次審査でだめでしたけど。それでも映画の目安となる二百字詰め原稿用紙、270枚書き切る、という鍛錬はできました。もし城戸賞とかを取ってたら人生変わってましたよね。脚本家になってたかな。石井聰亙監督、大森一樹監督、長崎俊一監督など、助監督を経験せずに学生監督からプロになったのを見ていたから、助手時代を経ず、僕も自主映画の面白いものを1本作って、そこから飛び級でやろうと思ったんです。ところが『爆裂都市』の現場がその考えを変えました。現場は本当にキツかったんだけど、スタッフは僕みたいな奴ばっかりで。こいつらも僕同様友達いねえな、と思った時に、仲間ができた気がしたんだよね。もうしばらく助手をやろうと思いました。友達いない同士っていいんじゃないですか(笑)。話が合う。

『爆裂都市』のメンバーはすごかった

緒方明松岡錠司という、『爆裂都市』で助監督をし、その後監督になった人たちと僕がいて、黒沢清監督や青山真治監督などを輩出した立教大学派に対して、こっちは爆裂派っていうんですけど。なんかこっちの方が、頭悪いみたいだけど、いやいや、そんなことはない。『爆裂都市』に参加した時はまだ学生で、22かな。大学では、授業には出ないで、新聞会の部室しか出入りしてなかったんだけど、そのうちその部室にも行かなくなりました。助手をやった期間は7年で、最初の2年くらいは美術部、制作進行、編集助手をやってました。後の5年は助監督。監督になった時に、さまざまなパートをやっておいて良かったなと思いましたね。美術部の時、壁一面を赤く塗れと言われて2度塗りしなきゃいけないのにペンキがなくなって、ホームセンターへ買いに行き、どれだけ塗料にお金がかかるかを覚えたし。美術部の立場から監督を見られたから面白かったですね。助監督だったら現場に入れば自分の仕事で手一杯になるけど、少し引いて監督の仕事を見られたのが良かったです。

『どついたるねん』からの荒戸源次郎との仕事

僕は決めないとね、ずるずる先送りするタイプなんですよ。今日できることは明日にするタイプ。普段から毎日明日の予定を書かないとさぼってしまう。何時から何時まではこの本を読んで、何時から何時までは洗濯して、と全部決めなきゃただ自堕落に過ごすだけ。そんな決め事の一つ、助手時代、僕は30歳で監督になると決めたんです。何でかよくわからないけど、区切りをつけなきゃ嫌だったんですね。28歳くらいの時から具体的に考えて行くわけですよ。脚本を書いてプロデューサーに読んでもらったり。それは当然映画化されたりしないのですが。29歳になる時、先輩たちに、助監督辞めます、もう仕事しません、と電話をかけて言いました。そこから貯金で暮らしつつ、デビュー作は、暴力衝動みたいなもので行こうと思っていました。暴力といっても、組織暴力に対して戦うというのはいまどき違うよな、と思っていたので、好きだったボクシングというジャンルをやろうと思いました。ボクシング映画はヒットしないよと、周りには反対されましたけど、逆に気が楽じゃんと思いましたね。赤井英和のファンだったので、製作母体などなんの確証もないのに赤井君に会いに行って、あなたで映画をやりたいと言いました。後で聞いたんですけど、赤井君は全く信じてなかったらしいですね。変な兄ちゃんが来て映画やりたい、お願いしまーす、って言われたけど、ほんとにできんのかい、て思ったと言ってました。

荒戸源次郎さんには付きまといましたね。いまは映画プロデューサーで出版もやっているリトルモアの孫家邦君が大学の後輩の友人で、在学中からよく遊んでいたんですが、彼は慶應大学時代から、劇団を主宰していて、その劇団の芝居を見に行った時に荒戸源次郎さんがいて、それが初対面でした。そろそろ監督デビューを考えていたころでね。それまでご一緒したプロデューサーたちからは、助監督上がりの奴が監督をやりたいと言っても、企画はすんなり通らないと言われていました。助監督から監督にはなりにくい時期だったんです。荒戸さんという稀代のプロデューサーは、インディーズで風穴を開けようという人だし、わかってくれるんじゃないかと思って、孫君を通じて紹介してもらいました。後で聞いた話ですが、今どき助監督やってる奴が、と荒戸さんは思ったらしいです。デビュー作にと書いた脚本もしばらくは読んでもらえませんでした。当時のその脚本はボクシング映画の形を取りながら、中身の3分の1くらいはボクシングとは無関係なテーマをはらみ、タイトルは『熱』というものでした。

荒戸さんが題名を『どついたるねん』にしてくれと言ったんです。赤井君の「どついたるねん」という自叙伝が出たんですね。やっとホンを読んでいただいて、孫君もバックアップすると決めてくれて、ここで畳み込むように荒戸さんを説得しようと、赤井君を東京に連れて来て、早速会ってもらいました。で、そのまま一気呵成に企画は進み、共演するトレーナー役を原田芳雄さんにオファーしました。撮影しながら、監督になったなという感慨深さと、思春期からの思いは通じたけれど、これで終わるかもしれないなとは思っていました。でも、眼の当たりにしたのは荒戸さんの興行力というか、『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』で使ったドーム型映画館を、再びメンテナンスし復活させて、まずは大阪で興行を開始したんです。その半年後、東京の原宿にドームを移築し、興行を続けました。荒戸が『陽炎座』以来、戻って来たぞ、と業界内でまた注目されたわけですね。荒戸さんという人は、業界内だけでなく、文化人はじめ幅広い人脈があるんですよ。コラムニストたちに映画を観てもらって、いろんなコメントをいただきました。秋山道男さんが女性雑誌に書いてくれたりね。宣伝部というものがないから、荒戸さん自身が人脈を使ってド派手にやってくれました。でも最初は人来ないですよ。原宿の若者たちの街に仮設の映画館作って『どついたるねん』やってますと告知しても、信号渡って映画館に向かって来るのは明らかにボクシングマニア。あー来た来た、あれファッションが原宿に似合わないな、てことは絶対うちに入るぞ、と思うとぱっと入るというね。

荒戸さんがすごいのは、ドームは仮設だから椅子はパイプ椅子に近いものにして、平日はその数を減らすんです。結構入ってたよ、と口コミが渡るように平日はわざとキャパを減らすんです。で、土日は目一杯広げる。原宿で半年公開してましたが、どんどん人が増えて、女性の数も増えて来て、最後の方はほぼ7割女性客。2回3回観たというOLの人が、見たことのないかっこいい男がいると口コミをしてくれて、また友だちや同僚を連れて来たりしてくれる。当初は映画ファンとボクシングファンだけだったのが、女性率が圧倒的に高くなりました。小泉今日子さんが観てくれて、高倉健さんも観に来てくれて、芸能界的にも口コミで広がったらしくて、ヒットもしてビデオもめちゃくちゃ売れて、僕はこれで終わる、と思ってたのに、賞もたくさんもらって、もう天狗になるしかないじゃないか、と思ってたらやっぱり天狗になりましたよ(笑)。女性スタッフにハンドバッグで殴られたこともあります。あんた、なに天狗になってるの、と。その頃は俺が東京で顔を振ると、鼻の頭が大阪で当たるというくらい天狗になった(笑)。何でも俺はできる、というくらいの勘違いですね。

『鉄拳』でコケて『王手』を売る

次に手がけたのは『鉄拳』という、やはりボクシングもの。松竹配給で、予算も大きいものでしたが、大コケして作品評的にもダメで落ち込みました。荒戸さんがドライブインシアターで使用するような凄い光量の映写機を両国国技館に持ち込み、前代未聞の完成披露試写会をやったんですよ。それが荒戸さんの興行師としてのすごさで。打って出る、人様とは同じことをしないということですね。その次は『王手』という将棋の映画。脚本は荒戸事務所にボランティア募集で入って来た、後に監督になった豊田利晃。孫君が発案し、脚本賞を設けて、20人くらいいたボランティアの子たちから募集し、1等賞の脚本にはカツ丼を奢ってあげるという「カツ丼大賞」というもので、その第1回大賞が豊田の将棋界を題材とした「電撃王手」という脚本でした。彼は、以前、奨励会という将棋のプロ養成機関にいた人物で、真剣師という賭け将棋を生業とする男を主人公に書いて来たんですね。『どついたるねん』で評価を得た時に、一部の人たちから、あれは赤井が地でやってるだけじゃないか、演技でもなんでもないと批評されましてね。悔しかったです。『王手』はアクティブなものがなく、将棋盤の前でじっとしている赤井を素敵に撮るというのがテーマでね。じっとしていても赤井が色気を出せば、そんな批評も払拭できると思ったんですが、それを見事にやってくれました。荒戸さんが靖国神社の傍に、また仮設の映画館を建てて上映しました。次の『トカレフ』も荒戸さん、岡田裕さん、アスミック·エース原正人さんがプロデュースで、サントリーがお金を出してくれました。テアトル新宿で公開して、その年の劇場での興行収入がワースト2だった。それをテアトルの人にバーで言われた時に、申し訳ないけど、しばきました(笑)。笑いながら言うから、ウイスキーもかけました。その方とは今は仲直りして、興行を担ってもらったりしています。

飲みの誘いは一回も断らず、最後まで絶対に帰らない

『トカレフ』まで荒戸さんとやって、その後は荒戸さんの元でプロデューサーを担った椎井友紀子さんと一緒にКИНО(キノ)というプロダクションを立ち上げて20年間共に映画を作りました。椎井さんは周りからは女荒戸と言われてました。荒戸さんも原理原則があり、やらないこと、許さないことがはっきりしてる人で、椎井さんもそうでした。彼女は面白い人で、学生運動で逮捕歴もある。お父さんは戦後すぐの国会議員で右翼の大物だし、出もすごい。荒戸さん、椎井さんと、僕はプロデューサーに恵まれています。でないとデビューから連作するなんて無理ですよ。大ヒットして、プロダクションが潤ったことはないですが、それは椎井プロデューサーの気質でもありますね。結局、制作プロダクションとしてはずっと赤字で借金が膨らむばかりで、他のプロダクションだったら、借金を返そうとして、事務所のために、さして興味のない仕事も受けるんですよ。でも、椎井さんは一切やらないですからね。やらないことをしっかり決めている。いつでも事務所をたたむという覚悟がある。その代わり、お金を借りては埋めてやって来たわけですけどね。多分ずっと頭の中はお金のことばっかりだったと思いますよ。荒戸さんの場合は、お金の苦労を忘れるという得意技がある。どれくらい背負っているのかを忘れるというか、ストレスとしない。どこかでしてるとは思うんですよ。でも、そこは見せない。無頼というか豪放磊落を地でいくとんでもない人でした。

僕は、随分迷惑をかけました。荒戸さんは飲み食いが大好きで、なんとかでデビュー作を荒戸さんの元で作らせてもらいたいと願っていた頃、荒戸さんからの酒席の誘いは一回も断らず、最後まで絶対に帰らないと決めていました。最初10人くらいで飲んでいて、最後1人になっても僕は帰らなかった。それが良かったらしいです。あるとき、飲みに行った席で、そばにいた大企業の団体と喧嘩になったんですよ。こっちには荒戸さん、麿赤兒さんがいました。学生時代ラグビーをやっていた荒戸さんと、その企業のラグビー部だった新入社員がラグビーの話で盛り上がっていたものが、途中からなぜか、大喧嘩になった。麿さんが立ち上がって喧嘩に加わったら、そりゃあ怖いですから、向こうの上司は慌ててすみませんでした、って謝るんだけど、それでも若いのが向かってこようとするので今度は僕がブチ切れた。僕が関西弁で、楽しく飲ませろや、こらあ、しばくぞと怒鳴った。あとで聞いたら、切れた僕のことを荒戸さんが気に入ってくれたみたいで、何を好かれるかわからないなあとその時思いましたね。

監督になってわかったこと

助手時代を経て、集団でものをつくること、監督の流儀については、わかっていたはずだけど、いざ監督になった途端まったく違う風景でしたね。助監督時代、スタッフと飲みに行くと、今日の演出違うんじゃない、とか監督の悪口で盛り上がったりして、監督業をわかったつもりでいた。監督とスタッフたちの間に川が流れているとして、助監督時代は、狭い狭い川幅に見えていたのが、いざ監督になって川を飛び越えて振り返ると、狭い川だったはずがナイル川くらいに見えるんですよ。向こう側でスタッフ同士がなんか喋ってる。遠くてその声はこちらには届かない。絶対俺の悪口を言ってると、いつのまにか、被害妄想になったりして(笑)。ある作品のとき、スタッフは下は18歳から始まり、録音技師の御大、橋本文雄さんは70歳を越えていた。年齢層に幅のある人間が何十人と集まると派閥もできるわけです。夜、両派閥呼んで飲み屋でやくざみたいに手打ちをさせたりして、そんな大変なときも。そんなの、監督にならなかったらわからなかったことです。スタッフの誰かの靴下に穴が空いてるのを見つけると、3足1,000円の靴下を買って行くし、咳をしてたら、のどぬーる買って行くとかね。そういうことでそいつの心をゲットしようということもありますよ、姑息な作戦として(笑)。若い頃は役者しか眼中になかったけど、経験を経て視野が広がるとスタッフとうまく付き合うことに力の50%は使いますね。監督業としての演出は50%ですよ。

作家性と商業性とのバランス

商業性は当然考えなくてはいけない。観客という観る側や、製作費の回収を常に忘れちゃいけない。自主映画の場合は作家性の方が強いと思うんですよ。作りたいものを仲間で作りたい、これをどう売るかというところまで及ばなくていいと思うんです。僕の場合、一応、映画の商業性を考えるんだけど、それが中途半端なのか、なかなか利には結びつかない。まず作家性という円があって、商業性という円があって、両方の交わりがあって、それを意識するわけですよね。作品によっては、作家性の円が大きくて、商業性の円の方が小さくて、交わりの円も小さくて瓢箪みたいな形になってしまうなと予測できることがあります。『トカレフ』の時がそうでしたね。バランスは違えど、作家性と商業性はいつも両者あるものです。

今、映画の業界で何が起こっているかというと、作品という品と、商品という品と、もう一つ消耗品という品が生まれるようになりました。使い捨てられることです。これはフィルムからデジタルになったことがかなり影響していますが、フィルムの時は、現像所で、100年でも、湿気を防いだ、環境を整えた倉庫でネガフィルムを管理保存してくれます。一方、デジタルのマザー(原板)というのは、監事会社や制作プロダクションが管理します。東宝が東宝のプロダクションで作ったらマザーを東宝が管理します。ただ、ハードがどんどん進化して行くと、マザーが再生できなくなるわけですね。次世代のハードに対応できるようコピーしていかないといけないのですが、いったい誰が責任を持ってやってくれるのでしょうか。フィルムの時代は現像所にあるから、プロダクションが潰れても原本のネガがある。しかし、デジタルの場合、管理すべきマザーを持っているプロダクションが潰れると、作品の原版そのものが消失する可能性があるんです。消耗品になる可能性があるということです。次世代にコピーしてくれる時も、予算のある会社ならいいですけど、ヒットもしなかったし作品の評判も悪かったらもういいんじゃないと捨て置かれて、フィルムのように100年後には絶対観られないという危険性があるんですよ。商品はいつのまにか消耗品に、ということになります。実際、その場限りで消耗品でいいじゃん、と思って作られている映画も多いと思います。その場その時の流行を売るのは悪いことじゃないけれどね。

『トカレフ』や『鉄拳』が最近上映されると、カルトのように言われたりしますが、それはフィルムのネガ原版が残ってたからですよね。映画って、公開された時がいちばん旬なんだけど、時代が経てば経つほどその作品は自由になっていくんですよ。20年後に上映された時に、携帯電話ってあの頃こうだったんだとか、あの頃はなかったんだというのも、映画のひとつの見所、魅力になるわけです。今の自分たちの日常と違う日常がスクリーンの隅々にまで映された時に、違う楽しみ方ができる。映画って、どんどん自由になっていく。僕が死んだ後、それまでどれくらいの本数を撮って死ぬか、何がいちばん評価されるかわからないけど、ただ、発掘して欲しいとは思います。代表作が一応あったとしても、そうじゃないものを発掘して欲しいです。それはきちんと管理されて残されているのが前提です。

自分が元気と勇気を与えられたい

団地』の後、無謀にもキューバの革命の映画『エルネスト』を撮りました。あえてやっていることですが、仕事のオファーをいただいて、こういうのを僕が得意だと思われてるのだなあと思うと、ギャラがいいんだろうなと思いながらも、断ってしまいます。もったいないことをしたなと思うんだけど、レッテルを貼られたくないんですね。観客を意識してヒットもさせたいし、そもそも映画監督になんでなったんだろうと思ったら、人に勇気と元気を与えたいと思ったわけじゃなく、自分が勇気を得て元気になるためだったよな、と。世の中には絶対に僕みたいに偏屈な奴がいると信じて、まずその人たちに期待して作ります。同じことを続けていくより、色んなジャンルに手を出して、新鮮なことを経験した方が、より僕が元気になれると思うんですよね。だから、できるだけ以前に使った手練手管が通用しないものを選びます。すごく緊張するし、自分の得意なところをやっておけば良かったなと思うこともあるんだけど、手を伸ばしてやっと手が届くか届かないかのことをやった方が、ひとりの人間として何か新しいものを手に入れることができると。思い切り手を伸ばして、経済やグローバリズムに触れたり、キューバをやったりしつつ、たまに、『一度も撃ってません』みたいに手の届くものをやらないと不安になり‥‥原点回帰もしますが。

時々、若い人から手紙をもらって、仕事させてくださいと履歴書を送って来たりします。「会社員やってたんですけど、30になって色々うまく行かず、やはり僕は映画が好きだったと気づきまして」と書いてある。遅い!って、返事もしない(笑)。中には映画の世界へ行きたいと言って、どういうアルバイトして来たかの履歴の中に、レンタルビデオ屋、CMスタジオとあって、映像にこだわって暮らしてるんだと思ったから、その人とは面接をしました。何を間違ったか、リクルートスーツを着て、映画監督になって何をしたいの?と聞いた時に、人びとに勇気と元気を与えたいんです、と言うから、それだけの人間だと自分のことを思ってるの?と聞いた。勇気と元気を与える能力があると自分のことを思ってるの?とね。僕は自分が元気になりたいからこの仕事してるんだよ、と言って申しわけないが断りました。その人は、僕のことを冷たい監督だと思ったと思いますよ。それでも、もし今、この業界にいたら、そいつは偉いですよ。自分の力で成し得て来たわけだから偉いと思います。

ある時、母校の高校で講演会をやったんですが、全校生の前で物作りについて一方的に講演をやって、後半のQ&Aの時間に、高校一年の女の子からすごく短い質問があって。「芸術って何ですか?」と訊いて来たんです。急に訊かれて戸惑ったので、「君はどう思うの?」と誤魔化すように問い返したら、「自己満足です」と答えたんです。「そうだよね、自己が満足できないものを人には見せられないね。おっちゃん、次に使わせてもらおう」と言いました(笑)。

『一度も撃ってません』について

ざっくりした言い方をすると、映画監督の仕事は、役者の顔を撮ることだと思うんですよ。その俳優の実人生まで含めて撮るということです。その俳優は誰なんだ、僕が撮りたい俳優は誰なんだ、といつも思うわけです。でも、撮りたくなるような人が段々少なくなっていますね。今まで脇役などで出てもらった石橋蓮司さんは、まだ触っていないところがたくさんあるし、おかしいところもいっぱいある。蓮司さんの軽妙さは貴重なんです。原田芳雄さんもそうだけど、そういうものを僕自身も近くで見てみたいし、この手の映画は案外ないんです。昭和的で懐古的、それであの世代が主演を張るという企画がなかなか通らない。そういう悔しさもあったんです。今どきの映画のポスターを見ると、ほとんど同じようなデザインで、同じような人たちが中央を占めている。それでいいのかという思いがあります。

僕も60を越えて、どんどん若い監督たちに凌駕されていくんだろうけど、逆に、彼らが発想できないことを、蓮司さんで見せようと思ったんです。あなたの先輩方のここまでの可笑しみって、簡単には表現できないでしょ、ということですね。僕が思春期の頃には、あの方たちはすでにプロの表現者で、岸部一徳さんはタイガースをやっていたし、でも、僕も歳は違えど同じ時代を見て来たんですよね。でもこっちは何が起きているのかさっぱりわからないわけですよ。答えが出ないわけです。よど号ハイジャックだって、浅間山荘だって、シージャック事件だって、東大闘争だって、それは記憶には強烈に残ってますけどね。今の時代で言えば、ニューヨークのテロ、911と同じような記憶ですよ。でも、その答えが明確でない分、たくさんの疑問がその時、生まれたんです。それって僕の世代では答えがないままなんだけど、あの俳優たちは表現という仕事をしながらその事例を目撃して、自分なりの解釈をしてきたわけですね。あの時代に生まれた言葉や思想はたくさんあると思うんです。その時代の若者たちが主導したざわつきのようなものを引き継ぎたいと思ったんですね。思春期に出せなかった答えを、知りたいと。

実現しなかったんですけど、セントラル・アーツ黒澤満さんと脚本家の丸山昇一さんとで別の企画を進めていたんです。それが5年くらい前。その打ち合わせのちょっとした雑談の際、実は蓮司さん主役で1本撮りたいんですよねと、言ったら、丸山さんが、ああ、僕の頭の中にもう企画は生まれました、と。「伝説の殺し屋、実は一度も撃ったことがない」、そう即座に丸山さんが提案して。それが『一度も撃ってません』で。それ面白いじゃないですかと言って、別日に、あるプロデューサーに、その企画を提出したんですが、実現しませんでした。その後、故原田芳雄さんの家に芳雄さんの仲間たちが集まった時に、桃井かおりさんがね、芳雄さんの次は蓮司さん主演で一本やろうよと言ってくれたのが再スタートで、キノフィルムさんがそれやりましょう、と製作、配給を引き受けてくれました。

予算ですが、撮影は2週間でみんな手弁当、といえばわかりますよね。あの渋いオールスター俳優たちに正規のギャラを払っていたら大変なことになります。 「Y」というバーが出て来るんですが、これは原田芳雄さんのYなんです。芳雄さんのご家族に、ローマ字のYと書いた直筆はないかと聞いたら、色んなところにYOSHIOと書いてあって、そのYだけ切り取ってバーのロゴにして看板にしたんです。芳雄さんの足跡を残しておきたかったんですね。俳優たちはみんな仲間なんだけど、仲良しクラブにはならず、自分が主役の時のようにかなり真剣ににやっています。やっぱり蓮司さんとやるということはそういう緊張を生むんですよね。友情出演とかゲスト出演には僕もしたくなかったし、本人たちもそういう意識でやるのは失礼ということでね。完成報告イベントで、蓮司さんが、これは遺作だと自分でジョークにしてましたけど。蓮司さん、コロナに怯えつつも酒は欠かさない。酒豪です。飲みに行くと平気で冷酒を5合くらい飲むんだよね。コロナ以前、あるとき、一軒目の店を出たら、お前には決着付けたいことがあると言われて、もう1軒バーへ行って。ハイボール飲みながら、実は僕と決着したいことなんかなくて飲み足りないだけ(笑)。それで、じゃあ帰りましょう、とマンションの玄関でオートロックのキーを押して、1枚目のドアが開いて入ろうとした時に、蓮司さんがまたこっちへ向かってきて、もう1軒行くかと言う。もう充分飲んだでしょうとドアの向こうに背中を押し込んで、エントランスから姿が見えなくなるまでずーっと見張ってました。

芳雄さんもそうだったけど、あの時代の人はすごくガタイが良くて。芳雄さんの胸板の厚さとか、二の腕の凄さとか、肉体の存在をすごく感じるんですよね。岸部さんも僕より背も高いし、体躯もいいし。ガタイが大きいから魅力があるわけじゃないけど、なにやら父親性のようなものを感じて、頼りにしたくなるんですね。

今は監督も役者の事務所もコンプライアンスを気にしますが、昔の映画作りは、道徳、倫理、正義を疑ったところからしか始まらない。もちろん一部の観客は、正義感の強いスーパーマンのような人間を好んで見に来るというのもありますが、映画を担う人間が道徳、倫理、正義というものに囚われたら何も出来ないですよ。型破りとか異端とか、エキセントリックとか、奇怪とか、そういった人間の傾き、欠損が、映画には一番似合うんです。清廉潔白な人を見たいという人ももちろんいますよ。けれど、観て「泣いた、笑った」だけになっても面白くないですね。僕はね。映画は希望だけではなく、絶望を与えてもいいもんだと思ってます。(了)

『一度も撃ってません』
主演:石橋蓮司 
共演:大楠道代 岸部一徳 桃井かおり 佐藤浩市 豊川悦司 江口洋介 妻夫木聡 新崎人生 井上真央 ほか
2020年7月3日(金)全国ロードショー


石井聰互(現:岳龍)、井筒和幸、川島透など“邦画ニューウェイブ”の監督たちの現場にスタッフとして参加。1989年、赤井英和主演『どついたるねん』で監督デビューし、芸術選奨文部大臣新人賞、日本映画監督協会新人賞ほか数々の映画賞を受賞。以後、『鉄拳』(90)『王手』(91)『トカレフ』(94)『傷だらけの天使』(97)など、初期の傑作群が続く。藤山直美主演『顔』(2000)では、日本アカデミー賞最優秀監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞・監督賞などを受賞。この作品で確固たる地位を築き、以降もジャンルを問わず、刺激的な作品をコンスタントに撮り続けている。斬新なSFコメディ『団地』(16)で藤山直美と16年ぶりに再タッグを組み,第19回上海国際映画祭にて金爵奨最優秀女優賞をもたらした。その他の主な作品は、『KT』(02)、『亡国のイージス』(05)、『闇の子供たち』(08)、『大鹿村騒動記』(11)、『北のカナリアたち』(12)、『ジョーのあしたー辰吉丈一郎との20年―』(16)、『エルネスト』(17)、『半世界』(19)などがある。20年7月3日、石橋蓮司主演のハードボイルド・コメディ『一度も撃ってません』が公開。

Name: 阪本順治
DOB: 1958/10/1
POB: 大阪、日本
Occupation: 映画監督 / 脚本家
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