映画作りは、道徳、倫理、正義を疑ったところからしか始まらない。映画監督・阪本順治インタビュー(1/2)
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INTERVIEWS:
阪本順治/映画監督/脚本家
型破り、異端、エキセントリック、奇怪、欠損、そういった人間の傾きが面白い。映画監督・阪本順治の作品は、その突出した凸凹な個性で溢れている。変化しない教育環境の中では「個性を大切にしなさい」と言いながら「どうすれば個性を大切にできるのか」教えてくれない。確定している論説に中指を立てる「熱」がなければ個性は守れない。映画がそう教えてくれる。
映画館に入り浸って映画に興味をもった
数年前、両親を見送りました。二人が倒れ、亡くなるまでの3年間、現場と大阪の実家を百回以上も往復しました。昔は大阪が嫌いでした。大阪人の情とか密な感じが苦手だったんです。思春期の頃から拒否反応を示して、早く親元を離れたいと思っていたのです。家は代々仏師だったんです。のちに祖父は仏師ではなくなり、仏壇商に転じました。祖父は仏像だけではなくさまざまな彫刻に長けていました。瞬く間に、木っ端に見事な鳥や花などを彫るんです。僕も彫刻刀を使って手習いをした時に、無から有を生み出すことの面白さを知りました。そのことが、将来の映画というもの作りに繋がったんだと思います。
実家は商店街の中にあり、ご近所に三つもの映画館がありました。私は不思議な子供で映画を観たとき物語性より、映画ってどうやって撮ってるんだろうという裏側に興味が引っ張られていきました。祖父や両親は、僕に商売を継いでほしかったんですが、そう望めば望むほど、違う道ばかりをひたすら考えてしまいました。彫刻や絵画は道具が見えるしプロセスもわかり、その分、奥が深いことは理解していましたが、同じ表現でありながら、映画づくりが最も摩訶不思議でした。分からないから興味があったんですね。
小中学校と夢中になった映画作り
小学校時代、近所の映画館にタダで入れてもらい、映写室にも入れてもらいました。小学5年生の頃、大阪府警の刑事だった祖父の弟がかなり多趣味な方で、お前、ものを作るのが好きだったら、と8ミリキャメラとフィルム1本を与えてくれました。撮ったものを現像してもらい、映写機を借りて自宅の襖に映した時に、しっかり映っていたのを見て、映画ってこうやって作るんだって少し分かった気がしましたね。ピントや露出も自動ではなく、手動でした。最初に撮ったのは、近くの施設に慰問に来られた皇太子妃の頃の美智子さんです。一般人は誰も施設には入れないので、沿道にロープを張られて人だかりになってました。僕はガキだからロープをくぐって前へ出ると、ちょうど美智子さんが車の窓から、手を振っているところでした。それをうまくパンして、ピントも考えながら撮った。その時、美智子さんと目線が合った気がしたんです。どこかにそのフィルムは残っているはずです。
中学では、8ミリ映画が好きな先生がいて、中学なのに映研を作ったんですよ。映研に入って、運動会の記録映画を撮ることになりました。自転車に乗って、キャメラを回したりしましたね。先生の指導もあって編集も覚えました。主に先生が編集しているのを横で見ていただけでしたが、ナレーションを入れたりもしましたね。カセットテープでの音出しだったけど。
高校に入った頃、NHKが自主製作のコンテストをやったりするほど、空前の8ミリ映画ブームだったんですよ。文化祭の時には、10クラス中7クラスの出し物が、自主映画でした。町中高校生のロケ隊だらけになるんですよ(笑)。文化祭当日は、7つの教室が映画館になっているわけです。僕は脚本とキャメラを担当して、監督は別の子でした。編集するだけじゃなくて、セリフを録音し、タイトルを入れ、凝ったことをしてたんですよね。スタッフキャストの名前を学校のグランドの画に重ねて、フェードイン、フェードアウトするとか。そういうことをやって、小中高と映画作りの基礎中の基礎を経験したわけです。これは監督になれということに近いじゃないですか。祖父の弟が、僕に8ミリキャメラを与えなかったら、もしかしたら違う道へ行ったかもしれない。お袋は、あれがきっかけでお前はヤクザの世界へ行ったと言うんです。あれさえなければ家の商売継いでいたのに、と恨んでいました。亡くなった母は僕が映画を作るたびに、もうこれでええやろ、と言いました。特に『亡国のイージス』の時には、これだけ大きい作品やったんやからもうええやろ、とね。そうは言いつつ、毎度、母は近所のおばさんたちと映画を観に行ってくれるんですけど、ある作品のとき、観た後に電話がかかってきて「観たで。はなしが、ようわからんな。あんたの脚本は隙だらけ。いっぺんうちが書いたろか」って、がちゃんと切られた(笑)。
全部映画のためだった
高校の時に、親に映画監督になるって言ったら、反対されました。で、そんな大阪を離れたいと思いました。京都の太秦に撮影所がありましたが、どうしても京都は時代劇というイメージがありましたので、やっぱり江戸に行くしかないと、思いました。映画雑誌を見ると観たい映画がたくさんあるんですが、大阪はその頃名画座がほとんど閉館し、独立系の作品や旧作が観られないわけです。せめてもと映画監督が書いた書物だけは読みました。大島渚さんが、京都府学連の委員長をやられていたと知り、監督になるなら学生運動を経験した方がいいんだと勝手に思い込み、学生運動が残ってる大学に行こうと思って、横浜国大に入ったんです。後にその話を若松孝二監督にしたら、「変わってるねぇ、サカモトちゃん」と笑われましたが。動機がそうですから、大学に入るなり、自ら自治会運動をやりますと言うような学生でした。前の年に、学内の内ゲバで一人殺されていました。私が入学した年も、僕をオルグに来たセクトの人間が、別れた後にナタとバールで殺されました。政治的なものを勉強するために、新聞会という新聞部に入りました。全然記事は書かなかったけど、ノンセクトとして揉め事の間に入る。まだ、右も左も分からない僕はセクト同士のぶつかりを止める係ぐらいしかできなかったですね。僕はその頃、関西弁ですから、「おら、何やっとんじゃ、うしろ下がらんかい、こらっ」と叫んでいたら、先輩に、君は口が汚なすぎる、と言われて(笑)。
集会を嫌う大学は、大学祭に対しても許可をしない時期でした。でも、僕らは大学から中止命令が出ても、強行突破して大学祭をやるんですよ。自治会の人間が、講義室のガラス戸の鍵を壊して、全教室を開放するんです。4日間開けっぱなし。キャッチフレーズは、“不夜城”ですよ。誰が構内に入ってきてもOKでね、暴走族も入って来るし。正門の外にも通用門の外にも機動隊が待機している。そういう緊迫した状況を経験し、ノンセクトなりに三里塚闘争も経験しましたが、僕の中ではずるいことに、全部映画のためだったんですね。しかも、それをみんなに宣言していたんです。すべて、監督になるためにやってます、と。
なりたいではなく、なると決める
思春期、僕は家出とか、ずる休みを繰り返した人間ですが、将来映画を撮ろうと思ったし、映画監督になりたいと思ってたんですけど、そんなのすぐに挫折するだろうと予測もついてました。なにも成し遂げたことのない、だらしない男でしたから。でも、なると決めればいいじゃないですか。なりたいだと、絶対に挫折する。挫折しないためには「監督になる」と決めるんだと。大学入学が決まって、アパートを借りるなら、松竹大船撮影所の近くに住みたいと思いました。撮影所の近くに住んで、撮影所を見学したいと思いました。守衛さんがいて、簡単に入れてもらえないと思ったから、さてどうしようと。当時映画監督のイメージは、テレビのワイドショーに出てらした山本晋也監督だったんですね。山本監督と同じような赤いアポロキャップを被ってサングラスをして、守衛に「おっ」、と手を挙げたら入れたんだよね(笑)。今は厳しいけど、その頃は緩かったんですよ。入って中を見たら、夢工場と思っていたものが、申し訳ないけど廃屋にしか見えなくて。ボロボロやん、と思いました。
新聞会の中に企画部というのがあって、先輩に、映画人の講演会や上映会を学内で定期的にやりたいと、映画の部署を作らせてくれと頼みました。ダイナマイトプロダクションから石井聰亙(現・岳龍)監督のフィルムを何本か借りたりして、学内で上映しました。その流れで、プロダクションの秋田光彦代表に会って、僕、実は映画の現場で働きたいんですと盛んにアピールしました。当時は、どこの映画会社も社員を採っていませんでしたからね。ある時、秋田代表から電話があって、石井監督が今度『爆裂都市』という映画を撮る、助監督枠はいっぱいだけど美術助手だったら空いてる、申し訳ないんだけどギャラは20万しか渡せない、と言われました。それがね、5ヶ月拘束で20万だった(笑)。それでも、石井監督の大ファンだったからうれしくてね。現場は初めてだったけど、毎日徹夜で、映画ってこんなにきついんだと思いつつ、喜びの方が勝ってましたね。コネが出来たのはそこからです。コネが見つかったら、今度はやれることはやろうと思いました。お金をかけずにできることは脚本を勉強することでね。ワープロもパソコンもないから、手書きで脚本を書いてはATG脚本賞とか城戸賞とかに応募していました。全部一次審査でだめでしたけど。それでも映画の目安となる二百字詰め原稿用紙、270枚書き切る、という鍛錬はできました。もし城戸賞とかを取ってたら人生変わってましたよね。脚本家になってたかな。石井聰亙監督、大森一樹監督、長崎俊一監督など、助監督を経験せずに学生監督からプロになったのを見ていたから、助手時代を経ず、僕も自主映画の面白いものを1本作って、そこから飛び級でやろうと思ったんです。ところが『爆裂都市』の現場がその考えを変えました。現場は本当にキツかったんだけど、スタッフは僕みたいな奴ばっかりで。こいつらも僕同様友達いねえな、と思った時に、仲間ができた気がしたんだよね。もうしばらく助手をやろうと思いました。友達いない同士っていいんじゃないですか(笑)。話が合う。
『爆裂都市』のメンバーはすごかった
緒方明や松岡錠司という、『爆裂都市』で助監督をし、その後監督になった人たちと僕がいて、黒沢清監督や青山真治監督などを輩出した立教大学派に対して、こっちは爆裂派っていうんですけど。なんかこっちの方が、頭悪いみたいだけど、いやいや、そんなことはない。『爆裂都市』に参加した時はまだ学生で、22かな。大学では、授業には出ないで、新聞会の部室しか出入りしてなかったんだけど、そのうちその部室にも行かなくなりました。助手をやった期間は7年で、最初の2年くらいは美術部、制作進行、編集助手をやってました。後の5年は助監督。監督になった時に、さまざまなパートをやっておいて良かったなと思いましたね。美術部の時、壁一面を赤く塗れと言われて2度塗りしなきゃいけないのにペンキがなくなって、ホームセンターへ買いに行き、どれだけ塗料にお金がかかるかを覚えたし。美術部の立場から監督を見られたから面白かったですね。助監督だったら現場に入れば自分の仕事で手一杯になるけど、少し引いて監督の仕事を見られたのが良かったです。(2/2続く)
作品、商品、消耗品。三つの「品」と、監督になって分かったこと。映画監督・阪本順治インタビュー(2/2)
石井聰互(現:岳龍)、井筒和幸、川島透など“邦画ニューウェイブ”の監督たちの現場にスタッフとして参加。1989年、赤井英和主演『どついたるねん』で監督デビューし、芸術選奨文部大臣新人賞、日本映画監督協会新人賞ほか数々の映画賞を受賞。以後、『鉄拳』(90)『王手』(91)『トカレフ』(94)『傷だらけの天使』(97)など、初期の傑作群が続く。藤山直美主演『顔』(2000)では、日本アカデミー賞最優秀監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞・監督賞などを受賞。この作品で確固たる地位を築き、以降もジャンルを問わず、刺激的な作品をコンスタントに撮り続けている。斬新なSFコメディ『団地』(16)で藤山直美と16年ぶりに再タッグを組み,第19回上海国際映画祭にて金爵奨最優秀女優賞をもたらした。その他の主な作品は、『KT』(02)、『亡国のイージス』(05)、『闇の子供たち』(08)、『大鹿村騒動記』(11)、『北のカナリアたち』(12)、『ジョーのあしたー辰吉丈一郎との20年―』(16)、『エルネスト』(17)、『半世界』(19)などがある。20年7月3日、石橋蓮司主演のハードボイルド・コメディ『一度も撃ってません』が公開。
Name: 阪本順治
DOB: 1958/10/1
POB: 大阪、日本
Occupation: 映画監督 / 脚本家
http://eiga-ichidomo.com
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