Loading...
YASUMASA YONEHARA

YASUMASA YONEHARA

June 3, 2017

Profile

Name:
米原康正
DOB:
1959
POB:
熊本、日本
Occupation:
編集者 / アーティスト

中国版Twitter『微博 (Weibo)』では200万人を超えるファンと日々交流を続け、世界中のDOPEなパーティーでチェキを使い写真を撮るキャップの男。これを表とするのであれば、裏は編集者。メジャーに中指を立て続け、インディー魂を忘れない。時代を巧みにエディットする男がその先に見つめるものは、文化に対する愛情、そして日本に対する愛情。

僕は大学を出たらちゃんと就職するんだなと思ってた。親戚含めて先生とか公務員ばっかりの僕は、小さい頃から親には、とにかく公務員か、もしくはお医者さんみたいなしっかりした所で働きなさいって呪いの言葉みたいに言われてた。

東京に出て来る前に熊本で専門学校に通ってて、近所の奥さんと不倫みたいになっちゃいました (笑聲) 。雨宿りしてたら「あれ?あそこの予備校の学生さん?」「お茶でも飲んでけば?」なんて言われたの。何回かお茶のみに行ってたら、ある日「奥さん!」みたいにメロドラマ (笑聲) 。ある時、僕と連絡が取れないって何故かその奥さんからウチの親に手紙が来たらしく、ちょうど受験で東京に来てる時にそれが発覚して、そのまま僕家出したのよ。僕、家出は結構何回かあるんだよね。高校生の時に気持ちいいオナニーを色々考えてたわけ。色んな本で調べると、蒟蒻がスゲーみたいな、温めると良いって書いてあってさ、それで親がちょうどドライブに出かけてる時があって、流石に蒟蒻をグツグツ煮てて親が帰って来て「お前なんで蒟蒻煮てんだ」ってなると恥ずかしいから、風呂で温めればちょうど人肌になるだろうと思って沸かしてさ、蒟蒻を投げ込んだわけ (笑聲) 。それで終わった後にちょうど親父達が帰って来て良かった良かったと思って窓から蒟蒻捨ててさ(笑聲)。そしたら親父が風呂に入って、「なんか蒟蒻臭いぞ」って言われて僕、、、。その日に家出したんだよね (笑聲)。 完璧に父親にバレるっていう (笑聲) 。

大学生の頃、渋谷のセンター街の奥にナイロン100%っていうニューウェーブのカフェがあってさ、ミュージシャンや絵を描いたりする奴等が集まる場所で生活を送りながら、働いてたんだけど、僕は大学を出たらちゃんと就職するんだなと思ってた。やっぱり田舎の少年って刷り込みがあって、親戚を含めて家の周りが先生とか公務員ばっかりの僕は親からとにかく公務員か、もしくはお医者さんみたいなしっかりした所で働きなさいって呪いの言葉みたいに言われてた。だからカフェに集まるみんなと何か一緒にやれば面白いのにな~って思いながらもやれず、就職しなきゃな~なんて思いながらバイトに明け暮れてた。

やっぱりどういう本を作るのか?っていうのがベースにあって、そこから外れるような企画はどんなにお金を積まれても断るみたいな、凄い昭和な感じがするんだけど、雑誌に個性があった。昭和の雑誌作りってのは本来大切な事でこういう風にして雑誌ができていくんだっていう事をそこで学んだ気がする。

大学に通いながら、『週刊明星』っていう芸能雑誌があってそこでバイトし始めたのよ。ちゃんとバイトすると月30万くらいになってさ、プラス年2回ボーナスが出るの、1.5か月分とか。結構いい金額なんだよ。仕送りもあるし、家賃は払ってもらってるから、なんかあれ?みたいな、就職しなくてもバイトで全然食ってけるんじゃないかみたいな気になってた。でも学生じゃなくなったら、ライターだとかちゃんとした立ち位置を確立しないといけないとは思い始めてた。その時『ギャルズライフ(GALS LIFE) 』っていうその後の『egg』みたいな国会で問題になった本があるんだけど、当時の不良な女の人達を集めて、ファッションも最先端で、写真も凄いメンバーが撮ったりしてた。僕はその中のドキュメト担当で、13歳売春少女とか、女子高生の正しいマリファナの吸い方とか (笑聲) 、そういう特集を専門でやらされてたんだけど、その雑誌が国会で問題になっちゃって廃刊になっちゃった (笑聲) 。そりゃそうだよね「マリファナはこうやって吸います!」みたいな写真とか撮っちゃってるからね (笑聲) 。でも最先端でお洒落な凄い本だったよ。

当時、『若い女性』と云う、後に『ViVi』に変わる雑誌があったんだけど、そこで芸能のインタビューをその後始めた。その時代は名物編集者って人がどこにでもいてさ、今って編集者は影が薄いけど、その当時は編集者が強くて常に営業と喧嘩してたよ。今じゃ信じられないじゃない。編集者がみんな営業みたいになっちゃってるし。その当時は、やっぱりどういう本を作るのか?っていうのがベースにあって、そこから外れるような企画はどんなにお金を積まれても断るみたいな、凄い昭和な感じがするんだけど、雑誌に個性があった。今は営業的に「はい、は~い」ってページ作っちゃうから、全部同じになっちゃう。だから昭和の雑誌作りってのは本来大切な事で、こういう風にして雑誌ができていくんだっていう事をその時に学んだ気がする。名物編集者の元でね。

 

Latest Issue