「カッコイイ事よりもより売れる路線」それが凄く嫌だった。MHAKインタビュー(1/2)

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MHAK as MASAHIRO AKUTAGAWA/ペインター/アーティスト


僕が小さい頃からウチの親父はなんでも出来たんです。昔は全てのことを自分より知ってたし出来ちゃうから強い憧れがあった。僕も将来子供を持った時そういう父親像でありたい。

子供の頃は、野球やったりスキーしたり、川遊びや山遊びもしてアクティブな少年時代でした。絵を描くのも好きでしたけど、それより外で遊ぶ感じでしたね。中学生から洋服に興味を持ち始めて、その延長上にインテリアとして家具があった。高校生になる頃、だんだんとインテリア的なものへの興味が強くなり始めて、ミッドセンチュリー・モダンに憧れました。そこから色々なデザイナーを知っていったんです。さすがに当時は買うことなんて出来ないからずっと憧れとして抱き続けた青春時代でした。18歳で東京に上京した頃になって、ある程度自分でお金が使えるようになってから、今までカッコイイな欲しいなと思っていた物をちょっとずつ買う事が出来るようになりました。それと同時に自分と共通の趣味を持つ仲間達も出来た。

僕が小さい頃からウチの親父はなんでも出来たんです。何でも出来たし何でも知ってたし、本当に凄いなと思ってました。今でこそ自分が関わる専門的な知識は僕の方が俄然詳しいですけど、昔は全てのことを自分より知ってたし出来ちゃうから強い憧れがあった。僕も将来子供を持った時そういう父親像でありたい。

自分の中で洋服よりもだんだん絵にフォーカスしていったんです。周りのみんなが僕の描いた作品を凄く評価してくれて、それがどんどん自信に繋がっていきました。少なくともこの道でやっていこうかなって思う一つのきっかけにはなった。

ずっと洋服に関わる事がやりたいと思っていたから文化を目指しました。ただ高校生活での出席日数が足りなくて、僕には文化服装学院を受ける資格がないって言われたんです (笑聲) 。それでも諦めきれず他の服飾の専門学校に行ったんです。類は友を呼ぶって言葉があるように、上京したその学校には趣味嗜好が似てる人達が沢山いました。それに東京は情報が早いし、何でも直ぐに買いに行けるし、凄く新鮮で楽しかった。その一方で学校では地方出身でナメられたくない気持ちが大きかったということもあって、出来るだけ早く訛りを無くす努力をしてましたね。一生懸命標準語アクセントを習得する感じです (笑聲) 。専門学校では地方出身の人間の方が多いはずなのに、みんな地方感を露出しないし、特にファッション専門学校だったから周りも絶対ナメられないぞって尖ってた人間が多かったと思うんですよね (笑聲) 。

洋服の専門学校には3年間通わせてもらいましたけど、3年目には自分の中で洋服よりもだんだん絵にフォーカスしていったんです。周りのみんなが僕の描いた作品を凄く評価してくれて、それがどんどん自信に繋がっていきました。少なくともこの道でやっていこうかなって思う一つのきっかけにはなった。その仲間達がいなかったら絵描きにはなっていなかったと思います。未だにその時の仲間とは良い関係で、時々仕事もするし、僕にとって本当に大きな財産になっています。絵を描いて一番最初に対価を払ってくれたのもそういう仲間だった。

その当時僕が働かせてもらっていたブランド側のスタンスが僕には合わなかった。カッコイイ事よりもより売れる路線でやっていた時代。それが凄く嫌で、スタイルないじゃんって。カッコイイいと思うもので勝負というよりもシンプルにロゴをドーンが売れるからっていうのが主流の中で仕事をして、左右されているようじゃ此処にいても自分が成長出来ないなって思って辞めたんです。

一度はアパレルの会社に入ったんです。だから組織ってものにある程度揉まれてはいたんですけど、その当時、僕が働かせてもらっていたブランド側のスタンスが僕には合わなかった。まぁ時代ですね。カッコイイ事よりもより売れる路線でやっていた時代。それが凄く嫌で、スタイルないじゃんって。カッコイイいと思うもので勝負というよりもシンプルにロゴをドーンが売れるからっていうのが主流の中で仕事をして、左右されているようじゃ此処にいても自分が成長出来ないなって思って辞めたんです。カッコイイと思う事、自分がやりたい事をしたいなら独立しかないと思ったんです。今考えると浅はか過ぎましたけどね (笑聲) 。


両親にも三十歳までに芽が出なかったら辞めるって約束もしてとことん突っ走りました。まだお金もほとんど無い時に、もうこれでいくしかないと決めて肘から下に刺青も入れてたし。もう真っ当に生きれないよって意味を込めて(笑聲) 。最初は何をしたらお金になるのか右も左も分からなかったんです。洋服のデザインをさせてもらっていた時のツテで先輩や友達が仕事をくれるくらいで、どうやってお金を稼いでいいか全く分からなかった。だから少しでも人に会わなきゃって夜遊びをするようになりました。そうこうしていくうちに、当時クラブでライブペイントをやってた面々と出会うようになって、一緒にやらせてもらったりしながら、ネットワークを広げていった感じですかね。もちろんその頃から既にモコモコは描いてました。今みたいな形ではなかったですけど、それが自分だって周りに認知してもらう事を常に考えて描いてましたね。今後もどんどん形は変わっていくと思いますけど、僕のモコモコは僕のモコモコでしかないんです。

根拠のない自信だけで生きてきたんで、思考が凄くポジティブなんです。だから苦しい時も確実になんとかなってきたんです。甘いのかもしれないけどその精神で突き進んだ結果、今があるって事なんじゃないかな。

一番困ったのは家賃を払えなかった事ですね (笑聲) 。返す当てもない借金もしたし、両親や兄弟、当時の彼女にもめちゃくちゃ迷惑をかけました。どれだけ辞めろって言われたか…、真っ当に働きなさいって。当然食えてないんだから、正論なんですけどね (笑聲) 。でも言われる度に『絶対大丈夫だから待ってろ』って返し続けてました (笑聲) 。根拠のない自信だけで生きて来たんで、思考が凄くポジティブなんです。だから苦しい時も確実になんとかなってきたんです。甘いのかもしれないけどその精神で突き進んだ結果、今があるって事なんじゃないかな。正確には覚えてないですけど食べれるようになってきたのは二十代後半くらいだったと思います。あの時の自分と比べたら今はもちろん余裕がありますけど、今後いきなり仕事がなくなる可能性もありますからね。やるべき事もまだまだあるし現状には全然満足出来てないです。まぁ僕らみたいな職種の人間は一生満足出来ないんでしょうけどね (笑聲) 。

僕の思う会津人は、人に対してフェイクな付き合い方をしない極端に偏った地方独得の人間性があると思うんです。正直に付き合ってきたし、それが綺麗に花咲いてくれたのが二十代後半でした。

僕は地方出身者として地元の伝統工芸とのプロジェクトで地元を盛り上げる事がしたかった。日本人作家としてやるべき事の一つとして、日本の伝統文化と一緒に何かをするのも一つの道だと思ったんです。もちろん自己満足ではなくてそれがお互いの為になるように。会津に生まれた会津人だからこそ出来る事もあるし、曲げたくない部分はずっと保っていきたい。僕の思う会津人は、人に対してフェイクな付き合い方をしない極端に偏った地方独得の人間性があると思うんです。まず人間として当たり前の人付き合い。当時はギャラが貰えない仕事だろうがなんだろうが、やりたい事はやる。自分の気持ちを優先して信用して人と付き合ってきた。正直に付き合ってきたし、それが綺麗に花咲いてくれたのが二十代後半でした。その当時からずっと付き合ってる人達は、今でも一緒に仕事をさせてもらっています。自分が信用した人間はとことん信じるっていう精神を培えたのは会津に生まれ育ててくれた両親や会津の風習のおかげだととても感謝しています。

僕が*デュエルでお世話になっていた時、師匠のあまり多くを語らない態度で示す導き方、なによりそのオーラがめちゃくちゃかっこよかったんです。言葉で伝えない美学。おかげで僕も言葉じゃない部分、場の雰囲気を読んだりとかそういう空気感の重要さに気付く事が出来た。締めるところは締めて抜くところは抜く。その流れの作り方とかそういうところからも今の自分が形成されてると思う。

僕は0から1にするのが苦手なタイプなんです。1を2にする事が凄く得意だから、自分なりに解釈して新しくする事に優れていると自分では思っています。

僕は0から1にするのが苦手なタイプなんです。1を2にする事が得意だから、自分なりに解釈して新しくする事に優れていると自分では思っています。自分が生み出すというより、自分が見た、感じたものを自身のフィルターを通して新しく生み出してる感覚です。基本的に僕は絵が上手いなーって感じの作品はあまり好きじゃなくて、アブストラクトとかミニマリズムとかよく分からないけどグッとくる。お洒落かどうかなんて人それぞれなんで説明は難しいんですけど、僕は自分の感覚でのバランスが重要。そこしか観てないです。今もそうだけど基本的に誰が見ても上手いってものを描くわけじゃないし、よく分からない物を描いたり、ちょっと捻くれた事をやったり、それを僕がお洒落だと感じたらそれで良いんです。

インテリアとの共存が自分の作品制作における全体のコンセプトです。好きな椅子の上に飾る為の絵、しっくりくる作品を自分で描いちゃえばいいじゃんっていうところからのスタート。何年か活動してきて今現在の僕の考えるベストな方法は絵画ではなく空間として捉えられる壁画。だから空間をコントロール出来る内装壁画が好きなんです。

本当に手で描いてんの?って思わせる機械的な仕上がりを目指しています。ライブペイントを嫌う一番の理由はクオリティーの問題に起因しています。というのもライブペイントは時間に縛られてしまうからどうしても手数を減らすしかない。それは= (イコール) クオリティーという部分を削らなきゃいけない。そこには自分の納得出来ないものが存在していて、それを人に観せるなんて以ての外。即興だといってもそれが全てだと思われるてしまうのが凄く嫌なんです。僕のしたい事はパフォーマンスアートでは無いから、わざわざライブで観せる必要性を感じていない。僕は納得がいくまで作品制作に時間をかけたい。ただそれだけ。

僕の周りにはキャンバス作品を買い求めてくれる人の数よりそういった現場を求めてくれる人の方が圧倒的に多い。それに日本は作品を飾る充分なスペースが無いとか、穴を開けられないとか細かいルールが今でも根強いから、作品 (アート) ってものを買いにくくしているとも思います。

内装壁画とかの現場仕事は、主にホテルや飲食店、洋服屋が求めてくれるんです。僕の周りにはキャンバス作品を買い求めてくれる人の数よりそういった現場仕事を求めてくれる人の数が圧倒的に多い。そもそも作品を作って売るという事が僕はあまり向いてないと思ってるんです。だから普段からあまり作品を作らないんですよ。それに日本は作品を飾る充分なスペースが無いとか、穴を開けられないとか細かいルールが今でも根強いから、作品 (アート) ってものを買いにくくしているとも思います。僕はどちらかといったらプロダクトとして世の中に送り出す事やインテリアとしての内装壁画を得意としてるから、それを本気でやっていくだけです。

2000年代初頭は毎年のようにトイショーに通っていました。その時に色々お世話になった人からアメリカのおもちゃ屋さんを紹介して貰ったんです。2000年代は、色々なアーティストがフィギュア作品を作っていた時代でアーティストとトイの関係がめちゃくちゃ密接だった。だから欧米のおもちゃ屋さんは、アーティストに対して物凄く興味を持ってくれたんです。そして、*ポートフォリオを渡しておいた一部から声がかかったんですよ。ギャラリーを併設してるおもちゃ屋さんで、トントン拍子でショーをやらせて貰う事になった。オープニングに来てくれた他のギャラリー関係者達からウチでもお願いしたいって声も貰えて、そこから海外でのネットワークが広がっていきました。

最初に個展をやったのは、2006-2007年くらいのまだ世の中をナメてる時でした(笑聲) 。東京神田のLABLINE.TVとアメリカのポートランドでやったんですけど、その時のポートランドで思いっきり鼻っ柱をへし折られたんです。アーティストっていうものに対してナメてたんだなって、自分が調子にノッてるって事を判らせられた。凄く時間をかけて描いた作品だから絶対に高額をつけないと駄目だとか、まだガキだったから自分でも自負してた。お前が有名だったらその値段をつけてやる、でもお前の事こっちで誰も知らないぞ?って (笑聲)。その価格を付けても良いけど、売れなかったら次は無いからって言われて。それで現実に向き直った。だから価格設定は全て任せました。極端にいうと自分が三十万円を付けようと思ってた作品が300ドルで売られるっていう (笑聲) 。でも、そのおかげで作品が沢山売れてくれて、次に繋がって行きました。売れなかったら本当に次は無かったと思います。

色々な分野で憧れてる人は沢山いますけど、いざ目の前に現れても対等な立場ですよって位のノリでいようと思ってます。もちろんリスペクトもします。ただ下手にでる事は美徳じゃない。海外と日本の圧倒的な違いはチャンスだと思います。地道に頑張ってる人が見つけられる可能性が高い。

地方出身なので、最初は誰々と同じ現場だとかミーハー心は当然ありました。色々な分野で憧れてる人は沢山いますけど、いざ目の前に現れても対等な立場ですよって位のノリでいようと思ってます。もちろんリスペクトもします。ただ下手にでる事は美徳じゃない。

海外と日本の圧倒的な違いはチャンスの数だと思います。何と言っても広がり方や仕事になるまでの段取りが恐ろしく早いんです。極端に言えば日本は、トップダウン以外そういうスピード感が無いんじゃないかな。僕の経験で例えると、初めましてで出会ったバーで「お前の作品良いね!幾らでウチの壁お願い出来る?オッケー明日から来て!」なんて事がアメリカでは普通にあったんですよね。しかも、それにちゃんとした対価、それなりの報酬もキチンと用意されているんです。そういうひとつひとつのチャンスが向こうには多くあるし、地道に頑張ってる人が見つけられる可能性が高い気がします。日本はそもそも知られるまでに時間がかかる。向こうには知ってもらえるチャンスが沢山転がってました。

日本には日本での付き合い方が勿論あるんですけど、僕の中で絶対ブラさないのは自分の我を通すという事。

日本には日本での付き合い方が勿論あるんですけど、僕の中で絶対ブラさないのは相自分の我を通すという事。例えば仕事で大手とやらせてもらう時に「ウチとやれんるだから従った方が良いよ」みたいなスタンスで来る人がいたりする。それに対して自分が本当にやりたい事がやれるなら良いですけど、そうじゃなくてクライアントのこういう事をして欲しいってリクエストに疑問を感じたら受けないスタンスです。納得がいくまで話が出来て落とし所に違和感を感じなければ良い。あれやってこれやってには従いませんよっていう事ですね。説明が難しいですけど、そこに対して僕は結構頑固な方だと思います。(笑聲)

絵描きとして活動してるくせに、デザイン的な部分に踏み込んでアーティストとしてコラボレーションをしていく事は、昔だったらあり得ない事だと思うんです。それをする事自体がセルアウト、かっこ悪いとされた時代だったと思うから。今の時代だからこそ僕みたいな奴がいるんじゃないかなと思う。

絵描きという部分にはあまり囚われていません。今現在僕がやらせてもらってる事の殆どがブランドさんやメーカーさんと一緒にコラボレーションで製品を作らせてもらったり、ある意味デザイナー的な仕事じゃないですか。絵描きとして活動しているくせに、デザイン的な部分に踏み込んでアーティストとしてコラボレーションをしていく事は、昔だったらあり得ない事だと思うんです。それをする事自体がセルアウト、かっこ悪いとされた時代だったと思うから。今の時代だからこそ僕みたいな奴がいるんじゃ無いかなと思う。僕は自分でやっている事が好きですからね。でも何をするにも自分のエゴだけは出させてもらう。だからそれを認めてもらう為の人付き合いをするという事。商品として売れる為にどうするのが良いか僕も一緒に考えるし、もっと突っ込んだ費用対効果云々とかの話にまで進んだり。 (笑聲)そういうところが他の作家と比べて自分の強みだと思いますね。客観的に観る事が得意だし、ブランドさんやメーカーさんもそう言ってくれてます。

今なんとなく売れてるからって理由だけで仕事を振られても結局良いプロジェクトになる可能性は低いし、相乗効果も少なくてお互いにとってほとんど利益を生まない。

仕事を受ける基準は、なんで僕を選んでくれたのかが伝わって来るか来ないかに重きを置いています。「なんで僕なんですか?」って聞く時もあったり (笑聲)。なんとなくな感じだったら「僕じゃなくて良いんじゃないですか?」って言う時もあります。そういう場合は大体が僕じゃ無くても良かったりするんです。仕事を振ってくれるのは物凄く有難い事なんですけど、今なんとなく売れてるからって理由だけで仕事を振られても良いプロジェクトになる可能性は低いし、相乗効果も少なくてお互いにとってほとんど利益を生まない。だから受けない。そもそもそうなる事自体がおかしいですけどね。好き者同士で熱意を持ってやらないと、結局お客さんに失礼になってしまうじゃないですか。今の世の中はそんな事が蔓延しているとも思います。自分の長けてる部分を挙げるとしたら客観的に見れるって事です。完全に僕のエゴでしかないんですけど、作家性の云々というよりは、ビジュアル的な部分でこの人の作品をこうしたらもっと良くなるのにとか、アドバイスも的確に出来ると思いますよ 。(笑聲)僕は完璧な形を出したいんです。総合的に誰をどこに配置するかのコントロールをする事も好きですね。

自分が自分である為に何をするか、それを考えて自分に正直に生きる。MHAKインタビュー(2/2)☞続く

*デュエル:
世田谷区三軒茶屋にあるシルクスクリーンプリントの会社。

*ポートフォリオ:
書類を運ぶ平らな自己作品集。特に美術系の文脈で使われることが多い。

*SETSUZOKU:
『新しいBoomの創造』を目的にMusicを通じて様々な分野へセツゾクする新たな表現の場、トレンドの発信を掲げ都内を中心に展開しているカルチャー・パーティー。


1981年會津若松生まれ。ペインター。デザイナーズ家具や内装空間に多大な影響を受けた事から絵画をインテリアの一部として捉えた”生活空間との共存”をテーマとした制作活動を行う。空間と絵画を共存させる事は絵画そのものを雰囲気として認識させる必要性があると考え、抽象表現にこだわったスタイルを追求。曲線で構築し反復する独特な作風で個人邸やホテルなど数々の内装壁画を手掛ける。2017年には『adidas Skateboarding』とのカプセルコレクションをグローバルで発表し話題を呼んだ。その他国内の伝統工芸や観光地とのコラボレーション、アーティストコレクティブ『81BASTARDS』の一員としても活動している。

Name: MHAK as MASAHIRO AKUTAGAWA
DOB: 1981
POB: 会津若松、日本
Occupation: ペインター / アーティスト
http://mhak.jp
https://www.instagram.com/mhak_/

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